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能「皇帝」に思うこと その14 

他生の縁と一期一会

第八回竜成の会が開催されてあっという間に半月以上が過ぎた。既にあれから10公演を終え、ようやくここに向き合う事ができた。本当はこの記事も開催までに書き終えるつもりだったが、最後の数日は舞台の準備などで時間が溶けてしまった。でも、こうやって振り返って書く事で、何か見えてくるかもしれない。

他生の縁(たしょうのえん)という言葉がある。能にもよく出てくる言葉だが、いわゆる前世で結ばれた縁の事である。

例えば一本の木の下で雨宿りをしていると隣に知らない人がいて、同じく雨宿りをしている。又は、一つの川の水を汲んで暮らしている大勢の人達。ここには前世から繋がった何かしらの縁が働いているのだそうだ。

先月の竜成の会において、金剛能楽堂に集まった人達ともきっと、他生の縁で繋がっているのだと思う。また、その縁で結ばれた出会いは一度きりのもので、二度と戻ってくる事はない。一日一日が生まれては消えていく。そんな当たり前に思える日常の奇跡に、能の公演はフォーカスしているように思えてくる。

能「皇帝」前シテ:宇髙竜成 能面「千種怪士」:宇髙景子作 撮影:高瀬フヒト   《転載禁止》

陰主陽従

陰主陽従(いんしゅようじゅう)という言葉を最近知る機会があった。光と影・外面と内面・陰と陽は対になっているもので、どちらかだけを切り取る事はできない。しかしながら、ついつい目にみえる陽の部分だけが「存在している」ように思ってしまう。

陰主陽従の考えでは陰陽には主従関係があり、陰が主、陽が従であるという。目に見えない内面があって、その内面が外に現れて初めて、人はそれを感じ取る事ができるというのだ。

能の中に登場するセリフに「思ひ内にあれば色外にあらはる(秘めた思いが心の中にあると、いつしかそれが色となって外に現れてしまう)」というものがある。本来、お能の所作や舞にも、その内側に秘めた何か……奥ゆかしさの様なものがあるのだ、と改めて思った。

今回の舞台も「流行病と蝋燭の灯」というサブタイトルをつけたが、見える物と見えない物がそこにはあったのだと思う。むしろ見えない物に意識を向ける事で、今見えているものの在り方が変容していくようにも感じた。

暗闇の中の蝋燭の灯りが照らす一部分は、見えない部分を想像させる事ができる。まるで写真のネガの様に、むしろ影の部分がメインに見えるくらいである。

現代においては「明るい事」が当たり前ではあるのだが、そもそも宇宙そのものは「暗い事」の方が多いのではないか。当たり前を別の角度から見る事で、見える・聞こえる・感じる事ができる奇跡を再認識する機会となった。

暗きより暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月

という和泉式部の歌がある。この世界には迷いや苦しみが多く、決して明るい事ばかりではない。古の世界観には光も闇も共存しているのだと感じ、現代にもそれは存在するのだと思った。

能「皇帝」後シテ:宇髙竜成 能面「小癋見」:宇髙景子作 撮影:高瀬フヒト         《転載禁止》

これからの竜成の会

これからの竜成の会も関蝉丸神社勧進能として第九回・第十回と開催していく予定だ。次回は令和6年9月1日(日)に金剛能楽堂で開催予定である。曲目は既に決まっているが、まだ暫くは秘密にしておこうと思う。今回の経験を糧に、またゼロからのスタートとして一つ一つ創り上げていこうと思う。

お力添え頂いた多くの方々、そしてこの機会を与えて頂いた皆様に心から感謝を込めて。

終わり





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