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母なる谷

ギリシア第二の高峰、パルナッソス山(標高2,457m)の南麓斜面にあるデルフィへ。世界史で習った、いわゆる「デルフォイの神託」の地だが、元々は大地の母神ガイアを祀る神域で、のちにギリシア神アポロンが、神託のために「大地に裂け目のある地」を求めて辿り着いた土地だという。

パルナッソスの山塊からつづく花崗岩の岩壁を背負った斜面上に神域がひろがり、目の前には、緑の深い谷が、何やらただごとではない様子で口をあけている。谷のもっとも下には、オリーブの樹海が沖積の原野に繁っていて、そこをぬって蛇行する川の先に輝いているのは、山間の湖ではなく海、地中海(イオニア海)から湾入するコリンティアコス湾である。

調べると、このコリンティアコス湾の海底で、エーゲ海プレートとユーラシアプレートは「発散型境界」を形成しており、すなわちここは文字通り、アポロンが求めた「大地が裂ける場所」であると同時にまさに「生まれ出づる場所」であり、その意味で、大地の母神ガイアの神域と名指されるに違わない。

それにしても高々数キロ四方の範囲に見渡せてしまう世界で、垂直方向の劇的な落差のなかに、山・谷・野・川・海という一通りの地形のバラエティをおさめるこの風景の構図の強度は、筆舌に尽くしがたい。すぐそこに海があるのだが、神域のあるこの場所の標高は600m、背後には、標高2,500mのパルナッソスの大山塊を背負っている。

海から吹く風は谷を這い上がり、山にぶつかって雲となり、その雲が、すぐ手の届くようなところに浮かんで流れている。したがって天が、すぐ間近にあるかのようである。そこへ、ギリシアの強い太陽が、雲間から時折後光となって神域を照らしだす。

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なるほどそんな光景を見れば、かつて地中海世界に名を轟かせたデルフィの神域がなぜここに鎮座したのか、あまりにも明らかに思えた。

大地の母神ガイアの谷。アポロンが求めた、大地に裂け目のある地。そんな谷の構図は、たとえば、「酸の海」に臨むナウシカの風の谷の風景を彷彿とさせるし、神域との兼ね合いで言えば、本州中央高地の山間に発生した諏訪湖(糸魚川静岡構造線と中央構造線の交錯点にあって地殻が引き裂かれた構造湖である)とその沖積原である諏訪盆地を臨み、守屋山を背負う諏訪大社(上社)との類似なども思いあたる。いわば、ひとつの「世界モデル」としての、豊穣な奥行きをもつ谷である。

朝。太陽は谷の上方(東)から顔を出し、この深い谷をすみずみまで遍照したあと、夕、谷の向こう、西の山の端へと沈むのだった。


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