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#03 そこにいること

物理空間を共有する価値とはなんだろうか。スマートフォンという高性能な計算機を手にした我々は、ネットに常時接続し、プラットフォーム上で常に誰かとつながっている。スマートフォンを開けばどこにいても世界中のあらゆるエンターテイメントに触れることができる。そんな我々にとって、スタジアムでフットボールを見る価値はあるのだろうか。私はあると信じている。そして、その思いを強くしたのは、2023年6月10日の日産スタジアムでの異様な体験であった。

横浜F・マリノスは明治安田生命J1リーグ第17節で柏レイソルとホーム日産スタジアムで対峙した。試合は4対3でF・マリノスが逆転勝利をあげた。詳しい試合内容はYouTubeのハイライトを見てほしい。

簡単言えば、前半F・マリノスがリードして折り返すも、後半にレイソルに逆転を許して迎えた後半アディショナルタイムに2点を奪い逆転勝利したという試合であった。このように一文にまとめると、「劇的な試合だったんだね」、というのが一般的な反応だろうか。実際、YouTubeでハイライトを見ただけではスタジアムで味わったこの試合の衝撃が半分も伝わらないかもしれない。

私は物心ついたときから20年以上スタジアムやテレビでF・マリノスの試合を見てきたが、この試合以上に心を揺さぶられた試合を思い出せない。2019年に優勝を決めた日産スタジアムでの最終節でも、2017年に天皇杯の決勝進出を決めた等々力での激闘でも、感じたことのない何か特別な空間がそこにはあった。

クラブには紡いできた歴史があり、スタジアムにいるそれぞれの人にとってF・マリノスとのつながりがある。ホームスタジアムである日産スタジアムは、F・マリノスに関わるすべての人が積み重ねてきたものの結晶が表に現れる場所だと私は考えている。この試合の最後10分間は、F・マリノスが積み上げてきた底力が発揮された時間だったように思う。

試合全体は正直褒められた内容ではなかった。しかし、難しい局面でこそクラブの底力が試される。確かに神の気まぐれかなと思うようなラッキーな部分はあった。しかし、それも含めてフットボールだ。どんなに苦しいゲームでも「諦めない魂」は今もF・マリノスの中に息づいているのだろう。それを引っ張ったのは再び大怪我から立ち上がった不屈の23番であり、スタジアムに集まったF・マリノスのサポーターはそれに応えるようにトリコロールの勇者たちの背中を押し続けた。その中には、私のように、「諦めない魂」を体現したレジェンドの試合前の追悼ムービーにいい意味であてられていた人もいたかもしれない。なんであれ、F・マリノスが日々積み上げてきたクラブの底力がこの日の日産スタジアムでは確かに感じられた。

こんな記事を書きながらも、この試合の最後10分間は、正直あまり覚えていない。エースストライカーに向けてクロスが上がった時にゴールを確信したとか、ディフレクションしたボールがゴールに吸い込まれたさまがスローモーションのように感じられたとか、断片的に強烈な記憶もありながらも、最後のシュートを打ったのが誰であったかもその瞬間は気づいていなかった。あの10分間、私の声も心もホームスタジアムの中に溶け込んでしまったような、そんな不思議な体験だった。

時にフットボールのスタジアムが生きているように感じることがある。そこにいる人々が見えない神経でつながり、強大な生き物の細胞のようになってしまうのだ。まさに、この試合の私は、スタジアムを構成する細胞の一つであり、この試合を作り上げた一員だった。

「劇とは観客自体もその演出の一部に過ぎない」

荒巻大輔 ー 攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX #6 「模倣者は踊る」より

このように言ったのは、攻殻機動隊での荒巻公安9課長だった。フットボールにおいても観客とはまさにその演出の一部であり、時に、劇そのものと一体になってしまうことがあると私は考える。少なくともこの試合においては、フィールドとスタンドにある(と思っている)見えない境界が消え去り、日産スタジアムはひとつの劇場と化していた。

スタジアムでフットボールを見る価値が、間違いなく、この日の日産スタジアムから見出せた。確かにこんな劇的な試合は何年に一度のことかもしれない。しかし、何年に一度のその時空間を作り上げるのは、選手だけではない。コーチングスタッフ、運営スタッフ、ボランティア、スポンサー、そして、我々サポーター。F・マリノスに関わるすべての人が日々積み重ねたものが日産スタジアムのピッチに結果として現れる。サポーターは、その結果が特別なものになると信じて、時にはこの試合のようにともに特別なものにするために、スタジアムに通うのだろう。サポーターがスタジアムにいること、「そこにいること」が、何か特別な瞬間を生み出せると私は信じている。

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