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写真で語るということ

自分は写真の撮り手、写真で伝えたいという気持ち故、言葉は正直二の次。

写真が全てでそこで語りかけている。

その為には雨だろうが寒かろうがとにかく時間があれば撮りに出掛けないと始まらない。

そのような生活を何年か続けているのだけれど、性に合っているようで特に苦痛はない。

というか楽しい。

楽しくないと続かないというのは身を持ってわかっている。

というのも最近始めた英会話の勉強は気付くとやってない。

理由は明快で面白くないから。

なぜ面白くないのかよくわからないが、ただこれも切羽詰まっていてケツに火が点いているのでもうやらないとダメなとこまで来てる。

そうなるとやるわけだけれども、こういうのは自身の環境がそうさせているなと思う。

写真については、好き、面白い、かつ撮らないとどうにもならない環境に身を置いているのでこれは続く。続けざるを得ない。

人間その気になれば何だってできると信じているので、それは行動で示すのみ。

唯一それに必要なのは熱意、情熱、熱量、そうした自身の心情、心のあり方だと思う。

それで、写真で語るというのは撮り手として当たり前で、あーだこーだと能書き垂れていても写真はよくならないし、読み手はその写真を見て判断するのだから、これも言葉は不要の世界。

写真という結果が全て。

言葉でいくら流暢に語りかけても写真がそのレベルに伴わなければどうにもならず、ただのペテン師、口先野郎ということ。

その意味でも、写真に全てを捧ぐという生き方、気に入っている。


(HUCK Magazineに写真掲載されてます。よければこちらをご高覧のほど)

ではどうすればもっと写真で語れるのか。

ここは常に頭と心を悩ますところで、というのもストリート写真、正直マンネリとの闘い。

かつてよかった写真を今また撮っても、あるいは撮れてもそれはもう二番煎じで予定調和の域を出ない。

こちらも驚くような写真というのは、経験値が上がるほど少なくなっていく。

分母の法則で、母数がでかくなればなるほど日々の写真に新鮮味は薄れていく。

しかしそれでも撮り続けるところに写真は意味があって、やがて得体のしれないインスピレーションが降りて来るんじゃないかと。

というのも撮り続けないとわからないこと、そしてわかってくることがたくさんあって、例えば、じゃあポートレート入れ込んでみようとか、本当に身近な散歩スナップやってみようとか思い浮かぶ。

(この写真はモニターとしてお借りしたフジのX-E3で撮影。近所の散歩スナップ。)

そうするとそれらをやってみることでまたあらたな気付き、発見が出て来てそれがストリート写真にも反映されてくる。

そうしてどんどん経験値の積まれた写真が出て来る。

そして何よりその日の心情、これが大きく写真を左右するのも興味深い。

何を撮ってもダメな時期もあればその逆もあり。

それでも根気よく撮り続けること。

そうしないと見えて来ないものを掴むために。

一つ一つの目標をクリアしてまたさらにその先へ。

つまり経験を積んだ、含蓄のある言葉ならぬ写真が生まれる。

人生もこうありたいなと思うが、よく考えたら俺の人生、もう写真しか残されていない。

写真すなわち人生。

人生を写真で語るとはこれもありかなと思ったり。

(同上)

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