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「伝える」と「伝わる」

以前偶然アマナさんのこの記事を読んで、それ以来、撮り手として相手に伝わる写真てなんだろうとずっと考えている。

伝えるではなく伝わる。

写真をネット上なり展示なりで公表することは、これは読み手に伝える行為。

けれどもそれが相手に伝わるかどうか。

一方的な主義・主張、勿論これはこれで構わないし、我が道を進むことに何ら問題はない。

しかしここで相手が共感、共鳴、あるいは何らかの感情を惹起するか、揺さぶることができるか。

ここは撮り手として一つの大きな分岐点だと常々思っている。

どうせ発表するなら相手に伝わってほしいと大抵の人間は思うのではないだろうか。

何らかの思いを込めてシャッターを切る。現像する。展示であればその後プリントする。プロラボに決して安くはない金額のプリント代を支払う。ギャラリー代を支払う。

コンペであれば、審査員が納得する写真を提示する。そうしないと入賞はできない。

これは伝えることは勿論のこと、伝わることを目標にして行っていること。

例えば、会話において、一方的に自分のことを喋るとする。

本人は一生懸命自身のことを伝えている。

けれどもそれが伝わるか。相手が共感、共鳴、感情を呼び起こせるか。

一方通行の会話はやはり寂しいものだし、どうせ喋るなら相手に伝わってほしい。

そう考えると、では伝わる写真てなに?ということ。

構図、アングル、距離感、ヒカリ、テーマ、タイミング、きちんと被写体が分離・独立(セパレート)されてるか等、そうした基本的なこと。

ここを押さえているか。

さらに強く押すためには、上記を踏まえた上でそれを崩していくこと。より相手の心に引っかかりが残るように表現手法を何度も考察すること。

等々、あの手この手。

シリーズ、展示、本であれば、途中で意図的にヌキの写真、ハズシの写真等を入れ込む。

より印象的になるよう写真を編んでいく。

撮り手は当然ストーリーテラーでなければならず、一つの物語を写真で紡いでいく。

勿論、一枚の写真で全てを語ることができるかもしれない。

けれども多くの場合、全体の写真を見て判断し、その中でその一枚が輝いてくる場合が多いのではないか。

そうすると、ぱっと見たときに何がこのひと言いたいのだろうということは極力回避したい。

即ち、写真そのものをより魅力的に伝える、そして伝わることに注力することは、撮り手においては撮影と同等、もしくはそれ以上の時間を必要とすることになる。

ただ単にあいつは撮ってるだけと揶揄されないためにも、ここは常々意識している。

自分の場合、大きなテーマは「街とひと」。さらに突っ込んで「緊張感、切迫感のある街とひと。その雑踏感」。あるいは「情動性、孤独感、エモーショナルなもの、こと」あるいは徹底的な「美」等にどんどん絞り込んでいっている。

そして根っこにあるビート感。その重ね合わせ。

時たま抜きをいれたりブレイク写真を挟んで油断させてまた突っ込むとか、そういったことが必要になってくるわけで、これは本当にやればやるほどきりのない作業。

それもこれも相手に伝えるそして伝わるため。

あらゆる自身の考えつくこと全てを動員して写真を編む。

ネットは強力な拡販ツールだけれども、油断すると、ただネットに写真を垂れ流してるだけ。そう捉えられても仕方がなく、そこできちんとコンペにシリーズものを提示してみたり、展示を行ったりして、自身の立ち位置、そしてそれがきちんと伝わっているかというトライ&エラー、確認作業を繰り返している。

くれぐれも手前味噌にならぬよう、そしてひとり言のような一方通行の会話にならぬよう。

なぜならば、写真で生きていくと決めているから。

趣味で撮る分には特に何も要求しないしされない。

きれいな被写体をきれいに撮って、ああきれいですね。

それの何が悪いのか。

何も悪くないし、きれいな方がいいに越したことはない。

あるいは徹底的に難解を極め、誰も理解できない。

ふむ、難解だ。

それでいいと思うし難解は大いに素晴らしい。

しかし写真で生きるならば、きれいな被写体をきれいに撮って何も残らないことは絶対に避けねばならない。清涼飲料水ではない。

難解なものが難解なまま終わってはいけない。せめて読み手に傷跡くらい残したい。

つまり、伝える(こちらの思い)、伝わる(相手の思い)、これがどうしても、少なくとも自分の場合は必要で、そのためにストリート写真、あるいはポートレートにおいても、どこかに読み手に引っかかりを残したい。

単に消費されるだけ、賞味期限切れの写真、こうしたものを避けるべく、そもそもコミュニケーションを写真で行うとは、実に無謀でもあるなと思う今日この頃。

まだまだここから。


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