写真におけるアウトプットとインプット
以前尊敬する写真家にインスピレーションの源として何が一番良いのかと訊ねたことがある。
答えは「本」だった。
というのも、撮影を継続するにあたっては多くの引き出し、ストーリーを持ち合わせておきたい。
ともすれば足繁く街に通い、撮影を行ってもそれはマンネリ化を避けられない。
そこを克服してこその撮影活動なのだけれども、それでもノーアイデアで撮るようになれば、自身が一番面白くなくなるだろう。
ノーアイデアで撮影を行うようになると、放って置くと撮り手はついつい被写体に寄ったばかりの写真になってしまうそうだ。
寄ればそれなりにインパクトがあるのではないか、なんかすごいのではないかという錯覚が撮り手にはここで生ずるのだけれどもそんなことはない。
読み手は、延々と続く寄りの写真に最初こそは反応するけれどあとは飽きてしまう。
勿論、寄りこそ命、それが自身のテーマだというのであれば話は別だけれども、一般的に距離感も自由自在、それでいて街を活写するとなれば、寄りばかりでなく引きも自在に操りたい。
かくしてより多面的に街を人を撮影するとなれば、より多くの引き出しを自身に持ち合わせ、一瞬のシーンでも即座にさまざまなストーリーを展開できるくらいの度量は持ち合わせたい。
そこで冒頭の言葉なのだけれど、ではそうした自身により多くのストーリーを持ち合わせるための手段としては、「本」ということだった。
これは実に理に適っていて、なぜなら写真集や映画となると、どうしてもそのシーンを再現しようとなる。
それはつまり模倣の域を出なくて、それでは面白くない。
何故ならば、写真というものは、より新しい価値観を提示してこそその存在意義が出てくるのではないかと思うからだ。
旧態依然のプラットフォームに則った写真を見ても撮ってもさほど面白みはないだろう。
より斬新、より新しい価値観を生み出すたゆまぬ努力こそが撮り手には求められると思っており、そのための手法としては読書に頼るのが一番よいというわけだ。
本であれば、自ずと自身の想像力が掻き立てられ、ストーリーが構築され、それを独自の視点で構築するようになる。
それを視覚的な写真で表現するには一番適切ということなのだろう。
これは持論でもあるけれど、写真家はすべからくストーリーテラーであり、何らかの物語を写真で紡いでいくことになる。
主題のない物語はそもそも考えにくい。
どのような小説、映画、絵画等々にしてもそこには作者の意図があり、テーマがあり、物語がある。
写真だけがなにもないというわけではないだろう。
50枚、100枚と写真をまとめていくときに、そこには必然的に撮り手の意図というものがあり、その背景には物語がある。
それは豊穣であればあるほどよい。
そのための本、読書というわけだ。
勿論これは一例であって、読書以外にもそれまでの人生経験、映画や他の写真から得たインスピレーション等々、それを己の内部で昇華させたものを反映していくことも多々ある。
それにそもそも写真は現実の世の中を記録していくものであるから、単純に外部の刺激に触発されるということも一番多いのではないか。
しかしそこで尚のこそ読み手は聞いてくる。
これは何の意図を持って撮影したのかと。
そんなの写真を見て考えろと言って許されるのは巨匠たちだけで、一般的にはそこできちんと撮影の意図や背景が説明できないと、ただ撮ってるだけ。
それで片付けられてしまう。
そもそも写真を組んでいくときに何も意図するものがなければセレクトも組み順も全く手につかないのではないか。
勿論、ただ気になったから、綺麗だったから。
それはそれで十分な理由。
それを徹底していけばいい。
組んでいくときに自ずとタイトルが浮かんで来るはずだ。
それがテーマとして深化していき、さらにそこを追求して撮影していくようになる。
基本はこの繰り返しだと思う。
そして冒頭の読書によるより引き出しの多いストーリーやインスピレーションを持ち合わすことによって、さらに奥深い、興味深い写真になっていくのだと思う。
「写真は記録だ」とよく言われるけれど、それは巨匠たちの言葉であって、それだけではないだろう。
別にそれでもいいけれど、よりあらたなものを写真で提示していきたいと思うのならば、それにとらわれず、自身の思うところをとことん突き詰めていくといい。
少なくとも自分はそうだ。
そしてタイトルの件、インプットされる情報が多ければ多いほどアウトプットも多くなるだろう。
その逆も然り。
アウトプットを多くしたければそれだけ情報を吸収しておかないといけない。
圧倒的にアウトプットを増やすことによって写真はより豊穣な意味を持って撮り手に、読み手に迫ってくるのではないか。
それこそが写真活動というものだろう。
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