(240307c) 接ぎ木されたブドウの木。(キリスト教の象徴?)

キリスト教の象徴は、ブドウだ。
しかし、よくよく考えた結果としては、
厳密には、「接ぎ木されたブドウの木」では?と思った。

何故そんな事を言うのか?
それは、マリアは、自分の子のイエスを神ヤハウェに売り飛ばした。
普通は売り飛ばさずに自分の子供と認定する。
売り飛ばしていなければ
「接ぎ木されていないブドウの木」であったかも知れない。
しかし、マリアは、自分の子イエスを神に売り飛ばした。
だから、母と子供でなく、ある女(マリア)と神の子(イエス)となる。
と思う。

母と子は、普通のご先祖様とその子孫だが、
イエスは、神(妖怪?)の養子であり、マリアの子供では無くなった。

だから、キリスト教の本質としては、
「接ぎ木されている」が、必要な気がするのだ。

それに、ブドウの苗は、普通、接ぎ木された苗が売られている。
接ぎ木されている理由は、みんなが知っている通り、
その方が、果実のブドウの収穫が多いからだ。
でも、何故「接ぎ木しなければイケない?」とは考えないのか?
接ぎ木とは、根の部分の遺伝子と、茎や幹の部分の遺伝子が、異なる。
これは、まるで、
マリアが子のイエスを売り飛ばしている事を表していないか?
幾ら収穫が多いからと言って、「子供を売り飛ばす」のは、
オカシナ事だろう?

収穫が多いならば、ツギハギの植物の方が良いとは、僕には思えない。
だったら、半獣半人などのツギハギの生物も、何故受け入れないのか?
そりゃ、気持ち悪いからだろう?
ブドウだって、ツギハギは、少々気持ち悪く無いか?

だから、僕は、ブドウの木を植えるならば、種を蒔いて、
普通に出て来た植物から、収穫しようと思っている。

キリスト教の象徴としての、(接ぎ木された)ブドウは、実は、
根である部分が、養分を吸収する(稼ぎ?)部分であり、
地上の茎や幹の部分が、結実する(収穫?)部分であり、
これらは、ある意味、根がイエスであり、茎や幹がマリアでは無いか?
と思っている。

皆さまはどう考えるだろうか?

こんな感じで、とりあえず、

以上です。