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いつ死んでもいいから生きられる

清水裕也さんがnoteで連載を始めた『ジサスタグラム』に私の話を載せていただいた。

いろいろと相談に乗っていただいている清水さんのnoteのネタの1つにでもなれば、という気軽なノリでお話したのがちょっと申し訳ないくらい、きちんとまとめていただいた。


私は大きな失敗体験があるわけでもなく、壮絶ないじめを受けた経験もない。だからといって何か大きな事を成し遂げたこともない。山も谷もない平坦な道を辿ってきた人間だ。
けれど私は22歳、23歳くらいまで24時間365日「死にたい」と考えながら生きてきた。

24時間365日というのは大げさではなくて、
朝、意識を覚醒させた瞬間から「今日は仕事か…死にたいな」と身体を起こし、「職場に行く前に死ねないかな」と考えながら朝の支度をする。

仕事中も作業の合間に数秒でも間が空くと「なんでこんなしんどい仕事してるんだろ、死にたい」を思っていた。
自宅に帰っても何をするでもなく、SNSを眺めて「明日仕事行きたくないなー死にたい」と考えていた。

もはや思考の語尾のようになっていた「死にたい」という言葉は、常につきまとい私をネガティブの塊のような人間にさせていた。

そんな思考回路になるのに、何か決定的な出来事があったわけではない。
私は“幼少“から“子供“へ移行したタイミング——具体的には小学4年生になった4月——で急に自分以外の人間が、自分とは異なる生命体として活動していると認識した。

それを認識したことで自分は他人より劣っていることを自覚し、もともと少しだけ持っていた容姿のコンプレックスも相まって自己否定する癖がついてしまった。

自分は他の人より劣っている
自分は何をしてもダメな人間だ
自分に生きている価値なんてない

自分が自分の一番の敵になってしまったことで、常にいつも苦しく日常の全ての出来事が私を苦しめる鎖になった。

だから大したことのないこともとてもしんどく感じるし、好きなことをしていてもストレスが軽減できない。
自家発電したネガティブな感情が行き場を失って、ずっと体内に滞留している感覚を常に感じていた。

何かあったわけでもないのに「死にたい」なんて、本当に辛い人に申し訳ない。

究極は「死にたい」と思っている気持ちすら否定するようになり、気持ちのやり場がなくなってしまっていた。
病院に行く気力もなくて精神科には行かなかったが、あの時受診していたら鬱と診断されていたかもしれない。

「こんなに恵まれた環境にいる自分が鬱だなんておこがましい。もっと大変な思いをしている人がたくさんいるのだから」

苦しい気持ちすらも否定してしまう私のような人が他にもいるかもしれない。
けれど他人を見たって仕方がない。この苦しさは自分のものだ。明確に死を望む理由を持つ他人を羨んだって仕方がない。この苦しさは自分で消化してやりくりしていくしかない。

やりくりの仕方は人によるだろう。
私はライザップに75万円を課金して、努力から逃げられない環境を作った。容姿コンプレックスがあるなら、そこから直してしまおうという安直な発想だ。

今の私は「死にたい」から「いつ死んでもいい」に変わった。
例えこのnoteを書いている途中に天災で命を落としても、心臓をナイフで突き刺されても、なんの未練もないと言い切れる。

それは日々を悔いなく生きているということではなく、「生死」に執着しなくなったということだ。
24時間365日死を望んでいたときの私は、一方で生きる理由を探していたのだと思う。「これのために一生をかけたい」と思うような、生きたいと思わせる何かを探していた。

ただそれは望んでいるだけでは手に入らないし、ましてや「死にたい」という感情から対極にあるものだ。
だったら1歩でも1ミリでもいいからそちらに歩いてみる。顔をそちらに向けてみるだけでもいい。

その選択するのは誰でもない私だ。他人のことなんて知るものか。他人を害さなければ、自由にやらせてくれ。

そうやって開き直ったら、生き死になんてどうでも良くなった。今は生きているという事実の上に立っているだけで、死んだってどうなるわけでもない。

自分の命を大切にしろとか言うつもりは全くない。ただ死ぬよりも生きることの方がずっと楽ということは言いたい。

いつ死ぬかもわからないのだから、痩せるために75万円課金したって、自分のために時間を浪費したって構わない。

100%自分は自分のものなのだから、試しに一度自由に生きてみるのいいかもしれない。自分勝手に人体実験できるサンプルが一番近くにいるのだから。

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