SEKAI NO OWARI 『周波数』

お久しぶりです

今日は僕が音楽を始めたきっかけ、そしてもうかれこれ7年以上尊敬し続けて止まないSEKAI NO OWARIさんの楽曲『周波数』について書きたいなと思っています。音楽的な分析、というよりは今回は歌詞に関してを主に綴るつもりです。

この曲の歌詞、とてもとてもとても、シンパシーを感じました。僕が創作活動をやる上で大切にしていることの一つ、それがまさにこの曲が伝えていることのように感じました。

それはずばり「信じること」です。

と、いうとありきたりなメッセージのように感じる方もいるかもしれません。でもこれを歌にしたり、そのほかの創作物のなかに混ぜ込んだりすることは思いの外難しい。もちろんどんなやり方でも混ぜ込むことは混ぜ込めるのだけれど、そしてどんな混ぜ込み方がいいと思うかはもちろん最終的に人それぞれではあるとは思うけれど、僕個人の見解としてはこの「信じること」を創作物になめらかに(?)混ぜ込むことはとても難しい、と感じます。

その「信じること」を描くコンセプトとして、僕がとても素敵だと思っていて、自分の作品の中でも積極的に取り込んでいるのが「今ここにないもの」という考え方です。前にもどこかの記事で書いたかもしれませんが、「不在」によって「存在」させることができるという少し哲学チックな考え。「今ここにない」ということは「今ここではないどこかにあるのではないか」と考えることができる。「目には見えない」ということは「たとえ自分が知覚していなくても存在しているのではないか」と考えることができる。「不在」によって、「存在」は否定されるのではなくより確かなものとなるのです。
「証拠がない」は無いことの証明じゃない
歌詞の中のこの言葉がまさにそれです。「僕らが会えない理由」はどちらかが存在しないからではない。たとえばどこか遠くにいるのかもしれない、どこか別の世界に行ってしまったのかもしれない、どこか別の時代へ行ってしまったのかもしれない、僕たちはありとあらゆるものの存在を証明できないと同時に、ありとあらゆるものの存在を証明できるのです。さらにサビの歌詞の中で「奇抜な色の虎になって走ってきてよ」「魅惑の深海魚になって泳いできてよ」とあります。「僕」が会おうとしているのは、元々は人間として認識される存在であったかもしれない、でも会いに来る時には別の動物、なんならこの今僕たちがいる世界のものでもないかもしれない何かになっているかもしれない。それでもいつか「僕ら」は会えるかもしれない。たとえ今、僕の目の前にいなかったとしても、どこかに存在するかぎり邂逅することはありうるのです。

このような「信じること」の表象はジブリ作品やそのほかホラーやファンタジー作品などでも顕著に見られます。大澤千恵子氏の『見えないものの物語』という本によれば『となりのトトロ』でメイとトトロが出会う時、メイはトトロとあったこともないはずなのにトトロの名前をそのよくわからない呻き声から感じ取ります。これはもしかしたら生まれる前の生に所以するものなのかもしれない、いつかどこかメイがメイではなかった時に、別のどこかにいた時に出会っていたのかもしれない、だからこそメイは無意識の中からトトロの名前がわかったのかもしれない、ということです。

そもそも「存在」というものは一度疑いだすととてつもなくあやふやなものですよね…。「目に見えているからといって存在しているとも限らない。触れるから存在しているとも限らない。聞こえるから…」と言い出すときりがない。そんな世界の中で生きる僕たちは結局は少なくともある程度、何かを信じなくてはならない。それでいて信じることはとても難しい。そんな「信じること」への一つのヒントを投げかけてくれるような素敵な作品がSEKAI NO OWARIさんの『周波数』なのです。
そして僕も、そんな作品を生み出していきたいのだと改めて強く感じました。


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