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茉莉花茶の午後10時 1

落ち着かないまま仕事をしている。これはよくない。
LINEで「今夜は遅くなる」とメッセージを送ったが既読がつかない。
時計は9時になろうとしている。すっかり遅くなった。
来週から始まる美術館の展示物を今日中に搬入しなくてはならなかったのが、高速道路の事故ですっかり遅くなってしまったのだった。
ようやく会社を出れそうになって、もう一度LINEを開く。
未だに既読はついていない。
昨夜の会話を思い出す。大学に行くと言っていた。確か論文指導だと言っていた。長引いているのか?それとも、体調を崩してるのも考えられる。最近彼は少し様子がおかしい。
年明けから元気がないような気がしていた。一時は少し落ち着いたかのようだったが、先週あたりから不調な様子が確実に体調に出ている。
一緒に住み始めた時、彼の従兄にあった。
従兄というより兄といった方がしっくりするほどふたりはよく似ていたが、従兄殿の方は彼と全く違う強さ、オーラともいえる空気を纏っていた。でも、その強さは彼に対しては優しさに変わる。必要以上に心配しているようにも思えたが、実際彼といると庇護欲をかきたたせる存在だと気付く。
「何かあったらいつでも連絡して構わないから」
と連絡先を交換したが、こちらから電話をすることはほとんどなかった。正しくは連絡できなかった。一度、一緒に住んで間もなく彼が倒れたことがあり、慌てて電話をした。従兄殿は主治医と共に駆けつけた。そして「自分のダメージに気がつかないでいるヤツだから、ある日突然折れるんだ。気をつけてみてやってくれ」と言った。それ以来、従兄殿になり代わり様子を見ているが、もう何度も「こういうことか」と思うことがあった。でも、それは従兄殿もどこかで感じているのか、タイミングよくフォローが入る。どこかで見ているのではないか?そんなことすら思ってしまう。
会社の駐車場で、車に乗り込もうとしたちょうどその時着信があり、画面を見ると、彼の従兄殿だった。
一瞬、背筋がざわりとした。嫌な予感が当たりませんように。
「はい」
「今、どこ?」
確認はそこですか?と突っ込みそうになった声は、彼に似てなくもないが、彼の声より少し低めでぶっきらぼうな口調だった。
「会社の駐車場です。これから帰るところでした」
苦手意識から自然に敬語になる。
「その様子じゃどこからも連絡入ってないな」
「え?」
「中央病院へ来てくれ」
病院?来てくれ?
「彼に何かあったんですか?」
自分の心臓の音が煩い。
「大した怪我ではないが、詳しくはこっちへ来てから説明する」
通話が切れる。
自分が切ったのかもしれない。
自分の心臓の音がうるさい。まともに運転できる自信がなくなり、慌てて外に出てタクシーを拾った。

病院の救急夜間入口にて、彼の名前を言うと、外科病棟にあるひとり部屋の特別室を案内された。
病室は異様に広く、応接セットも置かれてあり、まるでホテルの一室のようだった。ソファはそのまま簡易ベッドにでもなるような大きさだった。奥の方にベッドがある。電話してきた相手がベッド脇に座り、じっと眠る彼を見ていた。
「遅くなりました」そう言うと、こちらを見上げて「こっちも連絡が遅れてすまなかった」と言った。
「大学に登録されている緊急連絡先が自分だけだったようでね」
彼によく似た顔が言う。
「何があったんですか?三日月さん」
自分が会ったことのある唯一の彼の身内。従兄の三日月蒼月氏だった。三日月さんはもうひとつある椅子に座るように促した。三日月さんの真横ではなく少し後ろに椅子を置いて座った。
「鎮静剤で眠っている」
ベッドには血の気のない顔色で眠っている宵月がいた。左手腕に点滴がされている。その先、昨夜巻いた左手の包帯は新しくなっていた。
「いったい何が?」
「大学の駐車場で襲われたんだ」
「え?」
椅子に座っていても足が震えた。
「たまたまウチの調査員が居合わせてね」
どういうことだ?しかし、それよりも…。
「誰がそんなことを」
口の中が乾いて、声が掠れる。
「ツキノキザワキヨタカ、聞いたことはないか?」
意外な名前が出た。
「知っています。といっても自分は会ったことないですが」
ここで三日月さんから槻木沢の名前を聞くのは意外なように思いもしたが、先日、田嶋さんからも忠告を受けていたこともあり、「やはり」と思う自分もいた。
「実行犯というわけではないが絶妙なタイミングでそこに現れたらしい」
「それはどういう?」
三日月さんの話によると、槻木沢は事件の起きる少し前に大学の駐車場に現れた。タクシーを降りて、正門から堂々と入ると地下にある関係者用駐車場に向かうと、彼の車の近くで隠れていたのだという。
「隠れていた?」
「あそこの駐車場は、出入り口にしかカメラがないんだ。だから中に入ってどこかに隠れていてもわからない」
三日月さんは何故か事情に詳しかった。
「防犯カメラの意味ないじゃないですか?」
「まったくだ。でもだからこっちもそばに寄れたのだけれども…たまたま、こっちで調査で槻木沢を張ってた者がいてね」
三日月さんのいうところの調査員は槻木沢を追って地下駐車場に向かった。現在出張中の准教授の駐車スペースに車を停める。ごく自然に車を降りる。一方、槻木沢は駐車場の壁際を奥に向かって歩いていく。そしてあるところで柱の影に隠れた。調査員の存在には気がついていないようだった。
それから間もなく事件は起きた。
校内に通じる通路から誰かが来た。調査員の見知った顔だった。だがここで声を掛けられるのはまずいと判断してそちらからも見えない場所へと移動した。見知った顔というのは三日月の従弟の宵月だった。もちろん宵月がこの大学の研究室で仕事をしているのは知っている。
宵月が自分の車のロックを解除した瞬間、それまでどこにいたのかひとりの男が宵月の背後に立った。
気配に降り向こうとした宵月は、そのまま膝から力が抜けたように倒れそうになった。
「教授、大丈夫ですか!」
調査員はわざと大きな声を出し、駆け寄った。
男は宵月を抱きかかえようとした。細身ではあるが背の高い肩幅のしっかりとした男だった。
「教授、宵月教授!」
宵月がピクリと動いた。
宵月の車が再びロックされた。
男は宵月をそのままにして、建物に通じる通路の方に向かって逃げ出した。
調査員はそのまま宵月を起こしあげるが、宵月はぐったりとしたままだった。
「教授」
呼びかけても反応がない。
「どうしましたか?」
隠れていた槻木沢が現れた。
「救急車を呼んでください」
今起きていたことを見ていないわけがない。
「え?あ、はい」
槻木沢は一見慌てた風で、言われるままスマホで119に連絡を入れる。「場所はP大学の地下駐車場です」
さっきの男とグルなのか?調査員は判断に迷った。
宵月は蒼白な顔色で呼吸も浅い。
「大学にも伝えてきます」
そう言って槻木沢もまた校内に通じる通路に向かった。
結局、槻木沢はそこには戻ることもなかったし、大学の関係者も救急車が来て初めて駐車場に現れた。
救急車が来る頃には彼も気絶から覚めていたというが、ショックだったのだろう、ガタガタと震えていたという。
病院についても落ち着かず、今は薬で眠っているという。
救急隊からの連絡で警察も動き出した。
腰骨の少し上にスタンガンの痕らしきものがあり、鳩尾に打撲痕が見つかった。
「危害を加えるというより、彼を連れさらおうとしてるようない感じですね」
「仕掛けたのも車のロックを解除した瞬間というから、案外と青藍の車を使うつもりだったのかもしれない」
不審車両はカメラには映らない、ということか。
三日月さんのいう調査員は彼を救急隊員に任せて、三日月さんの指示を仰ぐ。
「ツキノキザワキヨタカの滞在しているホテルで張っているが、連絡が入らない。おそらくホテルには戻っているとは思われるが動きがないのか?こっちも顔を見られたからスタッフの変更を余儀なくされるし…さて、どうするか?だ」
三日月さんは自分の右手の上に左の肘を置き、そのまま頬杖をつくように左手で顎を触る。
その時、微かに眠っていた彼が身じろいだ。
そしてゆっくり目を開けると、視線だけで辺りを見渡した。
「あれ?」
口はそう言っているようだが声がほとんど出ていない。
「大丈夫。病院だよ。野々隅くんもいる」
三日月さんが椅子から立ち上がり、彼を覗き込むようにしながら言うと、彼は視線を動かした。
「ここにいるよ」
声を掛けると、こちらを向いてホッとしたような表情をした。
「起きられるか?喉は渇いてないか?」
三日月さんの声が優しい。
「ベッド少し起こそうか?」
そこでようやくこくりと頷いた。
ベッド脇のスイッチでベッドを起こす。
「ペットボトルでも大丈夫か?」
こくりと頷く。
蓋を取って手渡す。
ひと口飲んで、ほーっと息を吐く。
「大丈夫か?」
再び三日月さんが訊く。
「ちょっとお腹が痛い」
ようやく声が聞きてホッとする。
「でも、大丈夫そう」
左手で胃のあたりをさすりながら言う。
「そっか」
「水、もういい」
と言うと、ペットボトルを差し出す。
「横になるか?」
それを受け取りながら三日月さんが訊くとこくりと頷く。
ベッドを戻すとごそごそと寝返りを打つように動いてこちらを見た。
「眠るか?」
頷くと目を閉じた。
「部屋にいるから。何かあったら呼ぶんだぞ」
目を瞑ったまま頷いた。
呼吸が寝息に変わるのを待って、自分と三日月さんは病室内にある応接セットに移動した。

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2へ続く