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22時のホットワイン

ミーティングルームに置き忘れられてたアートカタログ。
黒い服を着た男が林の中に立っている。こちらに背を向けて立っている。林は雪で覆われている。静かな絵だった。
Mark Edwardsと名があった。
なんともイギリス的な暗さと静けさと正しさ、そして、決して理解できないであろうと思わせる異質感を感じた。
「すみません」
名取霧香というマネジメント担当の持ち物だった。
「日本であまりメジャーじゃない作家のものがいいと言われて」
「なるほどね」
思った通りイギリスの作家だった。
「あのう。常務、よろしかったらどうぞ」
「いいの?」
「カタログが5冊送られてきたので大丈夫です。大体作品もどれにするか決まりましたし」
「じゃあ、もらっていくね」
名取霧香はにこりと笑った。
もともと感じのいい子だったが、最近表情が柔らかくなったような気がする。
自分の席に戻ってカタログをめくる。
雪の林の中、黒い山高帽を被り、黒い外套、黒いズボンの男が時にはふたりで立っている。赤風船が木の枝に絡まっていたり、犬を連れていたり、遠くを行く蒸気機関車を眺めていたり、男(達)は決してこちらを見ない。
あぁ…そうか…
その佇まいが、同居人に似ているのだ。そう気がつくと、この絵が気になったことがしっくりとした。
姿形が似ているわけではない。
優しげでありながら人を寄せ付けない雰囲気。彼にしかわからない静かな世界。それらがひどく似ているのだ。
あと10年、いや20年もすれば、本当にこの絵の中の男になってしまいそうな気がした。
彼が見る風景は彼にしか見えない。そんな気がした。

家に帰って夕食を食べ、風呂を終えて、90年代のアメリカ映画を見ていた。帰りに車の中のラジオでその映画の話題が出ていて見たくなった。
久しぶりに一緒の夕飯になった。こっちが忙しいくて遅くなったり、相手が急な通訳の仕事が入ったりで、ふたりでゆっくり顔を合わせて食事をするのはここ2週間ほどなかった。
こちらが夕飯の支度をしている間に相手が風呂に入り、一緒に食事をした後、今度は自分が風呂に入る。その間に相手は洗い物を済ませている。
洗い物を済ませ、一度大学関係者とのウェブミーティングのため書斎に篭った相手が、マグカップを片手に居間に現れた。
「あったかいの何か飲む?」
見上げて声をかける。
「あ、うん」
一度、ディスクを止めると、自分のマグを持って立ち上がった。
「書斎、あったかくしてた?」
母親のようだなと思いながらも訊いた。
「うん。おかげで乾燥して口や喉がカサカサ」
相手も息子のように報告する。
「加湿器入れたら?」
「うーん。紙が湿気っちゃうのは嫌なんだよね」
「あ、うちの事務所でこの間買ったのが良さそうだよ。事務所の子のお兄さんが家電屋さんでお勧めされたのなんだけど、確か部屋のサイズ的にもいいかもしれない」
「事務所用だったら広い部屋用でしょ?」
「いやいや、デザイン室用だから。あそこはプリンタもあるし。多分条件合うよ。明日は休み?休みだったら一緒に買いに行かないか?」
相手はゆっくりと瞬きをしたあと「うん。行こうか」と言った。
少しホッとした。
ここのところしばらく相手が沈んでいるように思えていたのだ。そんなにゆっくりと話をすることはなかったが気になっていた。
先日、久しぶりに出掛けた際に少し元気になったようにも思えたがその後、お互いに忙しくなった。疲れているだけなのかもしれない。いつもの「クール」とは違う、少し澱みを感じる静けさが相手にまとわりついている。うまくは言えないがそんな感じだった。

お湯を沸かそうと薬罐に手をかける。
そういえば、と思い浮かぶ。
「今日はこの後仕事するつもり?」
隣でふたり分のマグカップを拭いている相手に訊く。
「ううん。今日はもうしない。さっきのミーティングでおしまい」
「じゃあ、飲んでもいいかな?」
相手はそんなにアルコールを口にしない。弱くはないと思うが、なんだかんだで寝るまで仕事をしていることが多いので、酒を飲むタイミングが難しいらしい。
「ホットワイン。貰い物だけどワインにオレンジとレモン漬け込んでたのがあるんだ」
「うん。飲みたい」と頷く。
珍しいな、と思った。ホットワインとはいえアルコールを飲みたいということはほとんどない。
冷蔵庫からデカンタを取り出し、ミルクパンにふたり分を注ぐ。生姜のスライスを2枚、ハチミツを加えて火にかける。気がつくと隣に並んで鍋を覗いている。
「沸騰したら止めてくれる?つまみ用意するから」
「え?」
戸惑う相手を置き去りに、りんごを剥き始めた。
カチンと音がしたのでそちらを向くと、ふたりのマグにホットワインを注いでいる。ミルクパンの柄を両手で持っている姿に「そういえば」と思い出す。
りんごとチーズを乗せた皿を持って、リビングに向かう。
キッチンに戻るとふたり分を注ぎ終わった相手がトレーにマグを載せていた。
「いいよ。そのままで」
ふたつのカップを持ってリビングに向かうと、すり足気味の足音が慌ててついてきた。
「腱鞘炎、大丈夫?」
「あ、うん。だいぶ痛みはとれた」
相手は両手の親指が痛いとしばらく言って湿布をしたりしていた。
「使うなと言われても手を使わずにはいられないよね」
と言い訳するように言う。
今までも何度か腱鞘炎と言われていたらしく、今回もしばらくは痛がっていても病院に行こうとしなかったが、先週の月曜日、ついに根負けして湿布を貰うために病院に行ったらしい。
今も右手には黒いサポーターをつけている。

「何、見てたの?」
薄く輪切りにしたりんごに手を伸ばしながら訊いてきた。
相手はソファに、こっちは床に、テーブルの角、L字になって座るのがお互いの定位置だった。相手はひとりの時はソファの上でクッションを挟み膝を抱えて本を読んでいる。
自分はひとりの時はそのソファに寄り掛かるようにしてやはり床に座る。床には手織の絨毯が敷かれている。
「MJ。キアヌ・リーブスの」
「続き見なくていいの?」
「見たいシーンを見たからね?」
キアヌ・リーブスのアドリブと言われている、帝国ホテル絶賛のシーンのセリフが聞きたくなっただけだった。
「そっちもこんな時間にミーティングってさ。大変だね」
壁時計の針は10時を過ぎている。
ホットワインはもう半分くらいになっている。普通に飲むには少し味気なく思っていた赤ワインは取引のある印刷会社の営業くんから貰ったものだった。
「相手がイギリスだからね。向こうのお昼前に済ますのだったから、長引かなくてよかったよ」
りんごを齧り終えて答える。
事務所の子がテレビかネットか忘れたけど、リンゴを薄く輪切りにして食べるのを見たと聞いて真似てみたのが、案外好評だった。
「そういう時差なんだ」
「うん」
そういえば、あの絵の作家を知っているだろうか?相手は16歳までイギリスに住んでいた。
「この絵、知ってる?」
カタログを差し出す。
「あ、Mark Edwards」
悔しいけど、発音がカタカナではなかった。
「どうしたの?そんなにメジャーじゃないよね。自分は好きだけど」
カタログを開く。
「ポスター買えるの?買っちゃおうかな」
と嬉しそうに言うのを見て、嬉しいような、少し寂しいような気がした。何故寂しく思うのかわからない。物欲をあまり感じない相手だが、大学時代、絵本や画集を買い求めているのを見たことがある。その頃はまだそんなに親しくなく、海外の作家のものを原書で買うのが印象的だった。その中に絵本が混じっていたのだ。でも、それがまた似合っていてなんだか不思議な気持ちで見送ったのを覚えている。
「知ったのは割と最近というか大学出てからなんだけどね。従兄が『おまえが好きそうな絵だろう』って。好き。静かで。でも、どこか心の奥を不安にさせるよね。不安、違うな。ざわつく感じ」
嬉しそうに語る。
「あ、これいいな」
覗き込むと「The Station 」とタイトルが付いている絵だった。
男とあまり大きくない建物が描かれていて、男はこちらに背を向けるようにして左を見ている。男の後ろに影が伸びている。沈む夕陽を見ているのだろうか。
「お祖父様がこういうスタイルが似合うんだ。山高帽とか。自分も大人になったらこういうのが似合うようになるのかなぁ、なんて思ってたけど、全然似合わない」
似合わなくはないだろうが、それでも「可愛らしい」という印象が強いかもしれない、と思った。
「あぁ、そうか。お祖父様に似てるんだ。だからなんとなく親近感持っちゃうんだね」
うんうん、と納得したかのように頷く。仕草がいつもより子どもっぽく見えた。
ひょっとしたら、ホットワインで少し酔っているのかもしれない。いや、そこまでアルコールに弱くなかったはず。
うんうん、と頷くのを止めると、カタログをテーブルに置いた。
「どうした?」
「ううん」
様子が変だ。
「眠くなった?」
本当に酔ったのだろうか?
「眠い…のかな?目が…」
目を擦る。
「あんまり、擦るなよ。寝た方がいいんじゃないか?」
目を擦る手が止まる。
「眼鏡なしで見てたせいかな?目がおかしい」
乱視で、本を読んだり、仕事で机に向かう時は眼鏡を掛ける。
「大丈夫か?」
「うん。寝ようかな?明日、出掛けるし」
「あぁ、そうだ。だから今日はもう寝た方がいい」
「うん。歯を磨いてくる」
そう言うとのろのろと立ち上がり、洗面所に向かった。
それを見送りながら、やはり少し心配になる。
マグカップと皿を洗い終わっても、こちらに戻ってくる気配がない。
様子を見に行こうとしてろうかに出て思わず声を上げた。
壁に寄り掛かるように蹲っている。
「どうした?」
顔を覗き込む。かすかに歯磨き粉の匂いがする。
「なんかふわふわする」
そういえば同居を始めて間もなくにこんなふうに具合が悪くなったことがあった。
「立てるか?」
自分の肩に手を掛けさせ、立ち上がらせる。ふわりという軽い感触にぞっとした。寝室は2階だ。歩けるだろうか?
相手の左腕を自分の肩に回して歩き出す。足に力が入っていない感じもするが、歩くことはできた。
階段をゆっくりと上がる。はぁはぁと浅い口呼吸が気になる。
医者を呼ぶべきだろうか?
タイマーでエアコンが起動していたようで、寝室は暖かくなっていた。
ベッドに寝かせて、布団を掛ける。胎児のように丸くなる。はぁはぁと浅い呼吸が続いている。
「深呼吸、できるか?」
目を閉じたまま、かすかに頷いたようだった。
耳元に近づいて「ゆっくり鼻から吸って」と言うと僅かに開いていた口を閉じ、鼻から息を吸った。「吐いて」口からスーッと音を立て息を吐く。
何度か繰り返しているうちに寝息に変わった。
ホッとすると同時に感触とした不安感に襲われる。
しばらく様子を見て、部屋を出る。

以前、こんなふうに具合が悪くなった時、医者は自律神経失調症のようなことを言って、毎日のケアを求めていた。
今回もそうかもしれない。ここしばらくの忙しさで調子を崩しただけかもしれない。
何も言わず、雪の林に立つ男の絵を思い出す。彼は何てことない、むしろ自分の好奇心の赴くままにそこにいる。それを見るこちらは不安感と同時に「彼」を知りたくなる。
「明日、出掛けることができるかな?」
冷たいままマグに注いだサングリアは少し苦味を感じた。