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月の裏側を覗く必要はない・2

ドアがノックされ「おはようございます。坂本です」と言う声が聞こえた。
「どうぞ」
と直井が言うとドアが開いた。
坂本ともうひとり、昨日は見なかった男がいた。
「直井さん。おはようございます。眠れました?」
坂本が言う。
「おかげさまで。時間にしたら3時間ぐらいだけどぐっすり眠れたよ」
「それじゃあ、寝不足ではないですか?」
「大丈夫。車の中でたっぷり寝たから」
坂本は「あぁ…」と小さな声を出した。
「直井さん。朝ごはん、食べますよね?今、用意していますがその前に少しよろしいでしょうか?」
「よろしいでしょうか?といっても決定事項なんだろう?」と口に出さずに思った。そういえば昨夜も何も食べていない。それなのに直井は空腹を感じてはいなかった。
直井は頷くと坂本と一緒にいる男の方を見た。
年齢は直井より少し上だろうか。もっとも見た目では直井はだいぶ若く見える。きちんとした身なりで、髪もきちんと七三に分けられている。細いフレームのメガネが男を他から守るシールドのように思えた。
「弁護士の篠原先生です」坂本が言う。
「篠原と申します」名刺を渡され、直井はしげしげとその名刺を見た。
「直井広道さんですね」
「そうです。すみません、名刺とかないんです」
「大丈夫です。あなたに名刺は不要でしょう」
篠原弁護士はわずかに口角を上げた。
「朝食前に少しお話よろしいですか?」
「えぇ、構いません」
さっさとシャワーを浴びてよかったと思ったが、あまりのタイミングの良さに監視のあることを確信した。
朝の7時少し前である。そんな時刻に弁護士が来るというのはただ事ではないことが起きている、と直井は思った。
「昨日起きたことを順序立てて説明します」
直井は肘掛けにもたれるようにしてふたり掛けソファに、篠原はひとり掛けのソファに座っていた。
「まずは実名を出してお話ししますが全てはここだけの話にしてください」
篠原は言った。
「直井さんを人質にして、とある交渉をしようとしていた人物がいます。そこだけは名前は出せません」
直井は実名を出すと言っておきながら、最初にそれか?と怪訝な顔をした。
「直井さんの事務所の社長及び、元総理の大下氏と交渉するため、直井さんを拉致しようとしていたのです」
「何で?俺以外にも事務所にはたくさんのタレントがいる」
「あなたが事務所の稼ぎ頭であり、あなたのことを知らない人はいない国民的スターだからですよ」
「面と向かって言われると照れるけど。社長との交渉ならわかるけど、大下氏との話だったら俺は意味なくない?」
篠原はしばし、直井の顔をじっと見ていた。
「大下氏とお会いになったことは?」
「以前、番組に来ていただいた。総理になる前と在職中と。あと、復興計画の件で何度か会ったけど、まぁ、仕事だよね。個人的な接点はない」
「そうですか」
篠原は頷いたものの、何か引っかかるようだった。
「昨日楽屋で最後に会ったのはどなたです?」
「事務所の、自分たちのチーフマネージャーですね。翌日の、つまり今日の収録に中止の話をしていきました」
昨日は直井の個人の番組だったが、直井は20年ほど前にアイドル4人グループとしてデビューしている。チーフマネージャーはその頃からずっと直井らの面倒を見ている。直井個人もだがグループが業界のトップに立って10年以上が経過し、チーフマネージャーも以前のように現場に同行することは少なくなったが、相変わらず彼らをプロデュースし続けている。
「他は?」
「いえ。え?まさか」
「杉下さんでしたよね。チーフマネージャー」
直井は頷く。
「杉下さんは信頼してよろしいかと。昨日はT局でのお仕事でしたよね。そこでどなたかいらっしゃいませんでしたか?」
直井は昨日のことを思い出していた。
直井は楽屋には基本現場マネージャーしか入れない。メイクスタッフが入ることもあるが、その時は現場マネージャーも同席する。昨日はN局のトラブルの件でチーフマネージャーが来たが通常は現場には来ない。番組打ち合わせも楽屋ではしない。楽屋はあくまでも直井にとって「ひとりになる場所」なのである。
「最後に口にしたのはなんですか?」
篠原が新たな質問をした。
「お茶です。ペットボトルの」
「誰かに手渡されましたか?」
「前室に置かれてあるものだったから…あ、西島アナウンサーからもらいました」
「なるほど…」
篠原は「失礼」と言ってどこかに連絡をした。
「西島アナウンサーの動向を教えてほしい」
西島はT局の看板アナウンサーである。
「まさか」
「自分たちも西島氏は直接は携わっていないと思っています。西島氏に近い誰かです」
「局内とか?」
「かもしれません」
篠原の話だと、今回直接直井に接する人間の中にこの件に関して直接関与している人はいないと思われるとのことだった。
「万が一計画が失敗した場合、点が線になるのを防ぐためと思われます」
現にここを提供している代議士すらもこの件に関して知っていることは50%にも満たないという。
どういうことだろう?もともとここへ自分を連れてくる予定だったのだろうか?
「点のひとつである自分に線が届かないようにするために?」
「そうです」
「でも、計画はもう失敗しているんでしょ?」
直井は言う。
「そこはなんとも言えません」
その答えに直井は首を傾げた。
「私たちもその点をかい潜っての行動なんです」
篠原の話は次の通りだった。
少し前に同じようなを話を別の関係者から聞くことがあった。
直井広道が狙われている。
現在、直井の所属する事務所の専務に収まっている舟川一之は弁護士で、篠原の先輩にあたる。そのすぐ後に、篠原が顧問を務める元総理である大下代議士の秘書からも、大下と直井の関係を探っている者がいる。このままだと直井に危害を加えるかもしれない、という話を聞いた。
「大下元総理?どうして?」
「その件に関しては後ほど。それよりも昨日一昨日と、直井さんから見て不審な人物やいつもと違うこととかありませんでしたか?」
直井は目を閉じ、両手を顔の前で合わせた。今一度、昨日のことを思い出す。
「心当たりでも?」
「いえ。N局のトラブルも何か関係あるのかな?と」
「N局のトラブル?」
篠原弁護士にはその情報は届いていないようだ。
「Fスタジオって、N局の中でも大きなスタジオなんですが、そこの証明が落ちたとかで、今日は全スタジオの確認をするからとうちのチーフマネが言ってました。だから、朝の情報番組も局外のスタジオから放送するとか。確認できます?」
直井が言うと、すぐさま坂本がテレビをつけた。
N局の朝の情報番組にチャンネルを合わせる。
「あ、違う」
直井が画面を見てすぐさま言う。
「この番組は普段は局の入口に近いGスタジオからやっているんです。ここはどこだろう?ドラマ制作用の撮影所のような気がする。東山あたりかな?」
直井が言い終わった途端、テレビの中のアナウンサーが「本日は東山撮影所からお送りしております」と言った。
東山撮影所は主にドラマや映画の撮影が行われる場所だった。
「どうしてわかったんです?」
「照明かな?Gスタジオは窓からの自然光が入るから独特なんだ」
「東山撮影所なのは?」
「んー。この間立て続けに映画のクランクアップがあったんだよね。両方とも東山で撮ってて。次の映画撮るには少し間が必要かな?と思って」
「クランクアップの情報はどこから?」
「うちの事務所をどこだと思ってんの?大抵の大きな作品には事務所の誰かしら出ている。僕は遠慮してるけど」
直井はそう言って笑った。
演技は苦手だと言う直井だがテレビドラマは高視聴率だし、映画に出ると高い玄人評価を得る。その上の情報収集能力・記憶力・洞察力である。
「なるほど芸能人にしておくのが惜しいといわれるわけですね」
「誰が…」と直井が言いかけたところで「大下先生が」と篠原が口を開いた。
「大下先生は、本当は是非にもあなたに跡を継いでいただきたいと思っていらっしゃるんです」
「へ?」
直井は自分がさぞ間抜けな顔をしているのだろう、と想像がついた。
「何のあとをです」
「もちろん政治家としてです。それを直井さんのお父様に断られましてね」
「親父?」
なぜそこで父親が出てくるのだ?
「お父様からも何も聞いていないですか?」
「何を?」
「大下先生とお父様はご兄弟なんです」
「嘘」
番組出演の際のトークでは「自分の父親に似ています」と言ったことはあった。笑った目元が似ていると思った。大下も「私も直井くんに似ていると言われるのが自慢」と返していた。
「大下先生は、直井さんのお祖母様の親戚にご養子に入られているのです」
「マジで?」
「えぇ、マジです」
篠原弁護士は真顔でそう言った。坂本といい直井の口調を真似るのは彼らの中での流行りなのか?そんなしょうもないことを直井は思った。
「え?何?俺も知らないそのことを知っている奴が俺を誘拐したと?」
流石に直井は狼狽えた。もしそうならば、自分に近い人物、父親の兄弟、もしくはその家族。自分の見知った人間に誘拐されたということになる。どういう事情で、篠原達が自分を奪還(果たしてこの状態はそれで正しいのかわからない)していなければ自分はどうなっていたのか?
「いえ、誘拐しようとしていたのは直井さんの事務所関係者思われます」
「うちの事務所の?」
関連性がわからない。直井は思った。
少し離れたところにいた坂本がスマホで誰かと話をしている。
「わかりました。篠原先生に伝えます」
「どうしました」
篠原弁護士が坂本に訊ねる。
「大下先生のところに身代金を要求する手紙が届いたそうです」
「ご自宅?」
「そうです」
篠原弁護士は「どうして?」と呟いた。
「文面は後ほどFAXでも送られてきます」
「わかりました」
坂本はやや緊張しているものの、篠原は先ほどまでとなんら変わらない。
「身代金って、数千万とかだったらなんか嫌だな」直井が言う。
「俺、その程度って思われているんだったら正直嫌だ」
「ですよね」篠原がクスリと笑う。
「でも、身代金はついでですから。犯行声明みたいなものです」篠原は言う。
「でもおかしいです。先程お話ししたとおり、今回の誘拐は事務所の関係者で、大下先生とは関係ないはず」
そもそも、大下と関係している件は誘拐などということに発展はしないはずだと篠原は説明した。
総理大臣を今まで2回経験した大下一之代議士が、政界引退をほのめかしているという話は直井も知っている。そして、その後継者が決まっていないことも。党としては、大下の次を決めて次の選挙の準備を万端にしたいが難航している。
なんだかんだいって政治家は世襲制である。子どものいない大下代議士の地盤を狙っている者はそこそこあるだろうというのは直井もわかる。40年近い政治家活動を支えていたのは大下の地元支持者あってのことだ。その支持者が納得する人材が今の党には残念ながら見当たらない。
加えて、党内で不祥事が起き、党の顔である党首をすげ変えなくてはならない状況になり、後継者問題だけではなく、党で随一の人気を誇る大下に議員を辞めてもらうわけにはいかなくなっているのが実情だった。
ならばせいぜい後継者は自分に決めさせてくれ…と言う大下が示唆したのが直井だった。
大下と直井が血縁関係だとオープンにできればそれに越したことはない。直井には「国民的」という枕詞がつくほどの人気がある。その直井が選挙に立ち、大下が後楯になったら今まで以上の数字を集められる。だがいかんせん、直井は政治家としての実績はない。
直井はテレビの申し子、バラエティの猛者。くだけた笑いから、硬派なドキュメンタリーや討論番組までなんでもこなす。それを可能にしているのはこれまでの経験とそこで得た人脈。そして、直井の貪欲なまでの知識欲だった。政界の大まかな勢力図はその辺のワイドショーのコメンテーター以上には把握している。
「大下代議士は確か若い頃に奥様を亡くされているんですよね。そのまま再婚なさらず、お子様もいらっしゃらない」
「えぇ。ご自身が養子としていろいろご苦労なさったので、そのようなことをなさらずにいました」
直井は以前、自分の番組で楽しげにくだらないゲームに参加していた大下を思い出していた。総理になる少し前。今でも人気の高い政治家であるが、あの頃は次期総理と目され、世間の目が集中している中だった。
「息抜きにきました」
そう言って笑っていたのは、案外事実なのかもしれない、と直井は一緒のカメラに収まりながら思っていた。大下は自分と一緒のチームになるととても喜んでは収録中にもかかわらず、スチールカメラマンに2ショットを強請っていた。
「財産に関しましては、すでにご兄弟や甥姪たちに残す分と寄付に回す分など、きちんと遺言書を作成しています」
大下は直井の父の双子の弟なのだという。二卵性双生児だったとのこと。父には上にふたりの兄と、ひとりの姉がいる。すでに、姉と兄もひとり亡くなっている。父方でいうと直井の従兄弟姉妹は直井のふたりの兄を含めて11人もいる。それなのに大下には子どもがいないというのはなかなか皮肉なものだと直井は思った。
11人の中には自分などよりずっと政治家に向いている者もいる。自分の一番上の兄もどちらかといえば政治家に向いていると思う。
「大下先生は次の選挙を待たずに引退なさりたい。もしも次の選挙に関われというのなら、直井さんが後継者として立つのなら応援する。そう言っているらしいです」
部屋のドアがノックされ、昨夜会ったフリーアナウンサー似の男が入ってきた。男は斎藤というらしい。
直井の顔を見ると「おはようございます」と慇懃な態度で言う。
「おはよう」と直井は国民的と言われる営業スマイルで返した。
男は篠原に持っていたコピー用紙を渡した。
「これは…」
篠原が眉を顰める。そして、その紙を直井に向けてテーブルの上に置いた。
「随分と安く見られたものだ」直井は言った。
要求額は1000万円。加えて、大下の議員辞職が直井解放の条件だった。
篠原は眉間に皺を寄せた。
「ひょっとして私たちが予想していた相手とは違う人物なのかもしれない」
直井はテーブルの上のFAXをぼんやりと見ていた。
パソコンで作成されたと思えるそれは、一見何の個性も見出せない。
「大下先生はこの状況をご存知なんですよね?斎藤さん」篠原が言う。
「えぇ。大下先生からこちらを提供していただけるよう手配していただきましたし」
篠原は顎に手を当てたまま黙り込んだ。
「あの…」
直井が遠慮がちに声を掛ける。
「そもそも、俺を本当に拉致したのは誰なんです?事務所関係とおっしゃってましたが?」
「あぁ…話が横道に逸れたっきりでした」
篠原が少しだけ前屈みになって話を始めた。
少し前から政界、特に現与党内はざわついていた。現総理の様々な問題が表に出始め、総理自身のみならず政党としても支持率が落ちている。人気のある大下の総理再任を望んでいる者とそうでない者とで腹の探り合いのような状態が続いていた。大下自身も総理の椅子に座る気はもうない。反大下派はむしろ、今のこの状況を全て大下に被せてしまおうとしている党の中心部に対してであって、正しくは大下の意思を尊重すべきという意見だった。だからといって、大下の代わりに総理になれる人材は今の党内にはない。
党内の「武闘派」と呼ばれる面々は、大下を言葉で納得させるよりも強行的にことを進めることを提案した。本当に大下と直井に血縁関係があるのなら直井を人質にすることで、大下に総理になるように仕掛けてくる…そういう情報を大下の私設秘書である粕谷が篠原に相談してきたのは一週間前だった。
「人質といっても、このように拉致して云々ではなく、直井さんの弱みをマスコミにリークするというやり方です」
「リークって言っても大してないけど」
「そうなんです。向こうもあなたのクリーンさに驚いているようで、最大のネタは大下代議士との血縁関係にあるということ。むしろそれをマスコミに渡したら、次の選挙は党内で予定している候補者ではなく、あなたを出さねばならない」
それも厄介な話だと直井は思った。
「向こうも何か仕掛けてきて無理矢理スキャンダルを作ってくるかもしれない。直井さんには失礼ですが、我々のスタッフが直井さんの周辺をずっと張っていたのです」篠原は話を続けた。
奇妙な動きはないかと、粕谷、篠原を中心に大下の周辺、そして直井の所属する事務所の周辺を当たった。
「本当にあなた方は自分を拉致したわけじゃないんですよね?」
「ええ。まぁ、この状況は拉致されたとは言えなくはない状態ですが、あなたを車に積み込んでいた二人組から車ごとあなたを拐った形ですね」
「そのふたりが事務所関係者だというわけですね」
篠原は頷いた。
「現在そのふたりは舟川専務が話を聞いているはずです」
舟川も篠原に相談を持ちかけていたひとりだった。
事務所社員の不審な動きを舟川は懸念していた。
独自に調査していたが、その社員は大下が所属する党の若手議員と何度か会っていた。
その社員は元々は事務所所属のタレントで、芸能界引退後はスタッフとして事務所にいる。そういった社員は少なくはない。
「ただその人物は、事務所内で役付にもなりながら小野田社長を恨んでいるのだと舟川さんがおっしゃっていて」
「あぁ…」
直井にはその人物が誰か予想がついた。
「その人物は小野田社長を恨んでいても何ら行動を起こせるとは思っていなかったようですが、何かしら大きなバックアップがあるとしたら話は別だともいって心配なさっていました」
無理矢理のスキャンダルが誘拐では直井のダメージは少ない。
しかし営利誘拐として事務所、小野田に身代金を要求してそれが払われた場合、リスクに見合った対価を得る。
「実行したふたりはそんなふうに話を持ちかけられたらしいです」
実行犯にとって憎いのは事務所ではなく小野田。もしも身代金を払うことなく直井に何かしらの危害が加えられても悪いのは払わないと決めた小野田である。
実行犯のふたりは話に出ていた議員らとの接点はなく、誘拐には主犯格がいる。その主犯と思われている人物こそ、舟川が気にしていた人物だった。
「直井さんを誘拐しても、直接は大下先生との交渉には繋がらないはずだと私たちは思っていました。それが大下先生のところに身代金要求の連絡があったとなると、私たちは見当違いをしていたことになります」
篠原は言った。
「現在、大下先生に議員を辞めてほしいと願っている人はいません。少なくとも党としては辞められては困るのです」
篠原の話を聞きながら、直井は右のこめかみのあたりを右手の人差し指でコツコツと叩いている。直井の数少ないドラマシリーズの探偵の仕草だった。直井は芝居はあまり好きではないと公言している。この仕草はもともと直井の癖で決して演技ではなかった。
「これは大下代議士の自作自演じゃないですか?」
直井は、それまで自分のこめかみを突いていた人差し指で、テーブルの上のFAX用紙をコツコツと叩いた。篠原は頷いた。直井は、それまで自分のこめかみを突いていた人差し指で、テーブルの上のFAX用紙をコツコツと叩いた。