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胡麻塩

実家を出て3年後、弟がやってきた。
自分は就職でこっちに来たけど、弟は専門学校に入った。
実家から少し前に連絡があって、父と弟が来て新しい家に引っ越した。
そう、アパートではなく一軒家を借りた。平家だけど部屋が5つある。その他に台所とお風呂場、トイレ。水廻りに関しては少し前にリフォームされていた。
父の古い知り合いが持っていた家だった。
「タカシさんにだったらタダで貸してもいい」
「この家も、誰かが住まないとすぐダメになってしまう」
そんなことを言われ、あっという間に決まった家は、今まで住んでいたアパートよりも駅からは遠かったが、職場には近くなった。
家賃は「固定資産税分もらえたらいい」に落ち着いて一年で5万円。今年の分は父が出してくれた。あとは毎年どこかで5万円。自分はわかりやすく年末のボーナスが入ったら払うことにした。
弟の引っ越しをやはり父は手伝いに来た。
駅の立ち食い蕎麦屋で3人並んで蕎麦を食べて、「じゃあ、波瑠のこと頼んだよ」と言って父は帰って行った。
「車で来たのに駅の立ち食い蕎麦屋っていうのが親父らしいよな」
弟はそう言って笑った。
3年会わないだけで、弟は知らない人のような気がした。
就職して3年。車で2時間。新幹線で30分の距離でしかない実家に自分は一度も帰っていなかった。
それを誰も責めることも、帰ることを促すこともなかった。
実家というか、地元にいい思い出がないことを、家族はみんな知っていた。
本当はもっと遠くに行きたかった。それを父が「何かあったときにすぐにお互い行き来ができた方がいい」とこの町を推した。お金を貯めて、もっと遠くに行こう。そう思って仕事をして、尚且つ、アルバイトをしていたら、これだ。
「何、そんなに稼いでいるのさ?借金でもあるの?」
「ないわよ」
バイトに向かう準備をしている自分に弟は言う。バイトは夜間のビル清掃。
弟とは子どもの頃は一緒に話もしたかもしれないけれども、自分が中学生になった頃からほとんど話をしたことがなかった。
「ひとり暮らしって大変?」
「全然」
「じゃあ、俺が来て大変?」
「大変じゃないけど、新しいリズムに慣れてないだけ。今は慣れるつもりない」
「なんで?」
「あんたの学校始まったらまた変わるでしょ?」
「そうだね」
もっと自分との間に距離があると思っていたのに、やたらと話しかけてくる。自分がこっちに来てからは、「あけおめ」と「おたおめ」のメッセージぐらいのやり取りしかなかった。
「専門学校終わったらどうするの?」
「もちろん仕事に就くよ」
「家には帰るの?」
「うーん。就職先次第だな」
弟と一緒に住むようになって2週間。明日からいよいよ弟が専門学校に通い始める。弟の通う専門学校は割と近くで、弟は自転車で通うつもりのようだった。
「お昼、お弁当持ってく?」
「作ってくれるの?」
「自分の作るついでだから構わないよ」
「じゃあ、お願いしちゃおうかな?」
この2週間、朝ごはんや晩ごはんを一緒に食べてきたが、ふと確認していなかったことを思い出した。
「ねぇ、嫌いな食べ物あるの?」
弟はひどくキョトンとした顔で私を見ていたが「胡麻塩」と答えると、少し寂しそうな顔をした。
「大丈夫。私も胡麻塩嫌いだから」
胡麻か嫌いなわけではない。胡麻塩の胡麻が歯の間に挟まって、ずっと気になるのが嫌だった。挟まっている違和感とそれが見えているんじゃないかという恥ずかしさ。母に何度も胡麻塩をお弁当にかけるのはやめてと言っても、母は胡麻塩をかけ続けた。
高校に入ってからは自分でお弁当を作った。自分の作るお弁当には胡麻塩はもちろんかからない。これで、友だちと一緒にお弁当を食べても気にならない…そう思っていたけど、友だち一緒にお弁当を食べることはほとんどなく終わった。
22時から2時間のバイトを終えて家に帰る。バイトにはスクーターで行く。弟が羨ましがっている。自分のミントグリーンのスクーターでよければ、自分のバイトの時間に差し障りなければ使ってもいいと言ったらとても喜んでいた。
弟と暮らして1ヶ月半。ゴールデンウィーク。
「あんた、家に帰らないの?」
「うん。帰らない」
「新幹線の往復の切符、安いのがあるよ」
「姉ちゃんも一緒に帰る?」
「バイトがあるから無理」
「じゃあ、俺も帰らない」
そんなことを言っていたら父がやってきた。
「泊まる気満々ね」
車に新しい布団を積んでいた。
「いいだろう?俺がいる間は食費は俺が出す」
「それはありがたいわね。波瑠、焼肉とステーキどっちがいい?」
「焼き肉ぅ」
弟が拳を突き上げて答えた。

高校の同級生が1年の夏休みに自殺した。
真面目な頭のいい子で、クラス委員をしていた子だった。ただ、クラス委員をしている割には、休み時間もほとんど誰とも口をきかずいつもひとりでいた。
「アキに振られた」と死ぬ前の日に言っていた、と誰かが言った。
その「アキ」がいつの間にか自分になっていた。
お葬式の頃はもう学校中の、地域中の噂になっていた。
夏休みで学校に行ったのはその子の死を告げる全校集会の日だけだったのに。
「近所を歩けない」と母は泣き叫んでいた。
お葬式の日も、自分は行かない方がいいと担任から電話があった。
全くといって口も聞いたことがない子を私はどうやって振るんだろう?
そして誰も私の話を聞いてくれない。
唯一、父だけが私にその子のことを確認してきた。
「告られてもいないし、付き合ってもいない」
中学校も違う学校で、同級生というだけで、本当に相手のことはほとんどわからなかった。
「わかった。愛来は何も気にしなくていい。いつも通りでいい」
と父は言った。
お葬式も終わりしばらく経った夏休みの終わり頃のことだった。
死んだ子の両親が家に来た。
「サカヒトが大変ご迷惑をお掛けしました」
彼の名前はサカヒトと読むのか…と初めて知った。全校集会の時も何度か名前を聞いたがちっとも頭に残っていなかった。それにしてもこの人たちまで、自分が彼を殺したと言いたいのか?と腹がたってきた。自分は俯いたままだった。
「こういうことを今になって申し上げるのは大変心苦しいのですが、サカヒトは娘さん、愛来さんに失恋したから死んだのではないのです」
彼の父親が私の父親に言う。
「当たり前だ」
ぶっきらぼうに父が言った。
「誰がこのような話をしたのかはわからないのですが、サカヒトはずっといじめにあっていて、それを苦に…」
と彼の父親が言葉を詰まらせた。
遺書と日記があったという。それを持って学校に行ったがすでに噂が広まっていて、それを理由に担任も教頭、校長もその遺書と日記を受け取ることはしなかったのだという。
その話を聞き、父も私も何も反応することできなかった。
彼の両親はこのまま警察と地元の新聞社に行くと言って去って行った。
後には彼の母親が置いていった菓子折りがポツンと残った。
父親から話を聞いた私の母は「人騒がせな人たちよね」と置いていった菓子折りを開けて食べていた。
その後、テレビや新聞、雑誌の取材を迷惑そうに、だけどきちんと化粧をして応対する母にうんざりした。
学校でもさんざん噂していた同級生がいろいろ話を聞きたがったが、自分は休み時間は保健室で過ごした。担任や教頭などが頻繁に家に来たが、対応するのはいつも母だった。
結局波はあったが学校を卒業するまでその騒ぎは尾を引いていた。
学校行事には一切参加しなかった。もちろん修学旅行にも行かなかった。みんなが修学旅行に行っている間、ずっと保健室にいた。
保健室には養護教諭の他に外部からのカウンセラーが来ていて、自分に一切騒動の話をさせなかった。
卒業式には出なかった。翌日、父と卒業証書を取りに行くと、記念品と一緒に紙袋に入っていた卒業証書をなぜか養護教諭の白坂先生が持ってきた。
「先生にはいろいろお世話になりました」
「いえいえ。何もできなくて。私もこの学校は今月で卒業です」
と、白坂先生は言った。

「一緒にこうして外で食事するの久しぶりだよね」と弟は言う。
「この間、蕎麦食べたろう」と父が言う。
私はせっせと肉を焼く。
「母さんは元気?」
弟が父に訊く。
「元気と言えば元気だ。更年期ってヤツなんだろうけど、いつも何かに怒っている」
「あぁ、じゃあ、こっち来て正解だ」
「かもな」
「一昨年に裁判で学校が負けたんだよ。そしたら『ウチだって訴えることできたのに』とか言い出して、名誉毀損だとかなんとか」
「おい、波瑠」
「本人がいないのに何言ってるんだよ、って言ったんだ、俺」
弟は構わず話を続ける。
私は黙って肉を焼き続けた。
「姉ちゃんの名誉は母ちゃんも傷つけているんだからな、って言ったんだ、俺」
「波瑠」
父の声は震えていた。
「母ちゃんが有る事無い事取材に来た人たちに言っているの聞いて俺嫌だった。俺だって学校で変な目で見られて、でも、先生たちがいろいろ言ってくれたから俺は大丈夫だったけど、姉ちゃんは学校でも誰も守ってくれなかったんだろう?」
誰も、ではないのだけれど。
「母さんが悪かったって言ってたんだ。あの時は自分もどうにかしてたって。舞い上がっていたのかもしれないって」
「舞い上がって、てさ」
父の言葉に弟が箸を止める。
私は構わず、弟の受け皿に焼けた肉を入れた。
「母さんにとっては非日常的な出来事だったんだろう」
父が烏龍茶を飲み干した。
「母さんも反省はしてるさ。でも、まだ愛来には会えないとも言っている」
私はそこで初めて手を止めた。
「父さんも母さんに会えとは言わないし、言いたくない。時間が解決するかもしれないし、解決できない話かもしれない」
弟が何故か頷いた。

彼の両親が学校を相手に起こした裁判は、今年になって示談という形で幕を閉じた。
あの時の担任はすでに学校を辞めていた。校長と教頭は裁判が始まった時点ではまだ校長と教頭だった。
示談成立までたびたびニュースになったが、そこにはもう私の話は一切なかった。
そんなものだ。
焦げた玉ねぎを食べながらぼんやりと考えていた。
「愛来、あんまり進んでいないな」
父が言う。
テーブルの隅に胡麻塩が何故か置いてあった。
「波瑠、その胡麻塩取って」
弟は言われるがままに胡麻塩を私に寄越した。
私は黙って胡麻塩を少し焼き肉のタレのついたご飯の上に振りかけた。
「あ、姉ちゃん…」
私は胡麻塩のかかったご飯をかっこんだ。ガツガツとかっこんだ。
「ちゃんと噛まないと」
父さんが言う。
茶碗の中身をほとんど食べ終え、烏龍茶を飲む。
口の中には胡麻は残っていないようだった。
ふうっと大きく息を吐いた。
誰も自分を知る人のいない遠くに行く前に一度ぐらいは母に会いに、故郷へ帰れそうなそんな気になった。
そして、器の中に残っていたご飯をゆっくりと食べた。