見出し画像

噂と狐


街中が奇妙な噂で持ちきりだった。
一斉に広まった噂を、聞かないフリで店に入る。
鼠が「いらっしゃい」と客向けの顔と声をこちらに向けた。
カウンターに座って、いつもの酒を飲む。
「テキトーなこと言いやがって」
ふたつ向こうの席でやけ酒を飲んでいる男をチラリと見た。
役場の男だ。あぁ、じゃあ、この男が噂の男か。
「あいつがそうかい?」
そう言うと、鼠は情けなく眉を下げる。
狭い店だが、カウンターの他にテーブル席が3つある。
カウンターには男しかいないが、テーブル席にはそれぞれ椅子の数だけ客がいる。
どの客もヒソヒソと囁いては酔い潰れている男を見ている。
みんな噂を知っている。
街中に蔓延る噂の出所である狐は奇妙なヤツだった。
狐はわざと噂を流す。
いや正しくは、噂として広まりそうなネタを広めそうなヤツにそっと耳打ちするのだ。
「ここだけの話なんだけど」
「なぁ、知ってるか?」
「ちょっと聞いた話なんだけど」
相手が気に入りそうな枕詞をつけて囁いた言葉は、面白いほどに広まる。
狐はたったひとりに話をするだけだ。
元来、狐は余計なことをほとんど言わない男だ。
普段の狐はどこにいても静かに本を読んでいるか、寝ているかだ。
誰も狐の存在を気にするものはいない。
だけど、その狐が言う「ここだけの話」は実に蠱惑的なのだろう。
狐は本当のことしか言わない。
ただ少し、皆の知りたいことを省くだけだ。
噂が広まる中、その省かれた部分に余計な尾鰭がくっついていく。
それを狐はどんな気持ちで眺めているのだろう。
「なぁ、知っているかい?」
ある夜、鼠が狐を真似て言う。
「すべては狼の旦那に頼まれてのことなんだ」
「狐の噂か?」
鼠は黙って頷いた。
この街の顔役である狼に不義理なことをしたヤツは、それなりの報いを受ける。
「悪い噂も、そうなのか?」鼠に問う。
広がるにつれ、噂は「悪い噂」に変わっていく。
「素人相手にはちょうどいいだろう、って」
「それも噂か?」
鼠は首を振った。
「ここで狼の旦那が話していた。『だから狐は悪くない』とね」
「なるほどねぇ」
おそらくこの男に関する「悪い噂」も狐が誰かに囁いたものなのだろう。
だとしたら、この役場の男は狼にどんな不義理をいたのだろう。
むずむずと野暮な好奇心が蠢いた。
そして今じゃ長い尾鰭も余計な腹鰭もついた話は元々どんな話だったのだろう。
最初に狐から直に話を聞いたヤツが羨ましくなった。
でも、そのどちらも知ったところで腹が膨れるわけでもない。
「ところで」
酔い潰れている男の耳に聞こえないよう、小声で鼠に声をかける。
「あの時、狼の話を俺にしたのはどうしてだい?」
一瞬、鼠は「何の話だ?」と顔を顰めたが、「あぁ」と思い出し頷いた。
「あれは狼の旦那に頼まれたからだよ」
「頼まれた?」
「『おまえらは狐の味方でいてくれよ』とね」
「なるほどねぇ」
俺はグラスの氷を揺らす。
店の扉が開いた。
「こんばんは」
ふんわりとした、だけど少し低めの声が聞こえた。
振り向くと眠そうな顔をした狐がそこに立っていた。
「珍しいな」と声を掛けると、狐は俺の隣に座った。
「ここにいると聞いたもので」
俺の向こうに座る男をチラリと見て狐は言う。
鼠は狐にジントニックを出す。
「そろそろいいだろうって」
細長いグラスを両手で持って狐は言う。
狐は酒をひと口飲む。
そして、今までよりも少し大きな声でこう言った。
「ねぇ、知ってます?どうやらあの噂、嘘らしいですよ」
テーブル席の客達が一瞬静かになる。
「何が嘘なのかい?」鼠が言う。
「さぁ」
狐は首を傾げる。
「少なくとも、俺の聞いた話とは違いますねぇ」
「そうなのか。噂の主もいい迷惑だな」鼠が言う。
そこで潰れている男のことだと気付かぬ体だ。
そんなふたりのやり取りを、なるほどこれが幕引きかと思いながら眺めていると、後ろのテーブルの客達が、またザワザワと話を始めた。
狐はフゥッと息を吐いて、ゆっくりとグラスを口に運ぶ。
「お疲れ様」
俺が言うと、狐はふんわり笑ってみせた。