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バンドネオン

馴染みのダイニングバーは今日は貸切で結婚パーティが開催されている。人の集まるところを苦手とする宵月も今夜は嬉しそうにニコニコと周りの話を聞いていた。
店の常連で音楽教師の大友さんが40歳を前に結婚した相手は、宵月の所属する研究室で助手をしている木野江子さん。江子さんは25歳。だがこうして並ぶふたりは歳の差を感じさせないお似合いのふたりだった。
椅子の数より、人の数の方が多い。立食パーティー状態だが、宵月はカウンターの隅に座って乾杯のシャンパングラスをいまだにチビチビ舐めている。
あちこちでワッと笑いが起きたり、よくわからない拍手が巻き起こったり、店内は本当に賑やかだった。
そんな中、大友さんが仲間たちからのリクエストで、バイオリンを弾き始めた。
大友さんはバイオリンだけでなくピアノやギターも上手い。リュートという古い楽器も演奏できるらしいが、自分はまだそれを聞いたことがない。
即興演奏にも思えるがどこかで聞いたことがあるような気もする。おそらく大友さんの得意なアイリッシュフィドルの曲だ。みんなが手拍子する中、大友さんのそばで数人がステップを踏み始める。
確か彼らは近くのダンス教室のメンバーだ。
最初は社交ダンス教室だったようだが時流に乗って様々なダンスを習うことができるらしく、生徒も講師も年齢層が広い。講師のほとんどがこの店の常連で、その多くが今日のパーティにやって来ている。
このビルのオーナーもつい先ほどまでパーティ会場にいたが今は姿が見えない。
大友さんの花嫁もみんなに混じって笑顔で手拍子をしている。
演奏者と踊り手のバトルとでもいうように、大友さんがリズムを変えて演奏すると、ステップも変化する。みんなそれを楽しんでいる。もちろん自分も。
店の隅にいる彼をチラリと見ると、ようやくカラになったグラスをカウンタテーブルに置いて、椅子に座ったまま背伸びするようにダンスを見ていた。
店のドアが開いたような気がしてそちらを見ると、ビルのオーナーが入って来た。
手に何か荷物を持っている。
古い木の箱のように見えた。
そのままオーナーは店の奥に入って行った。
マスターが新しい料理をテーブルに運ぶ。
激しくステップを踏んでいても何も言わず、少しだけリズムに乗っているようにも見えた。普段はクールな印象のマスターなので、その姿を見て自然に笑みが溢れる。
演奏している大友さんもクールというか物静かなイメージだ。
以前クラシックのピアノ曲を披露してくれた時も「如何にも大友さんらしい」と思ったのを覚えている。
それが今日は体全体で演奏をしているという感じだし、演奏しながらも表情豊かで、時折江子さんと目が合うのだろう。すごく優しそうで楽しそうな笑顔になる。
大友さんがバイオリンを演奏しながらくるりとターンをした。
その時、店の奥からオーナーが出て来た。
「持って来ましたよ」
オーナーが言う。
「待ってました」
大友さんが言う。
「青藍。出番だ」
オーナーが店の隅にいた彼に声を掛けた。
「え?」
彼は振り向き、オーナー・・彼の兄の方を向いた。
「お祝いに一曲!」とオーナー。
「一曲と言わずに付き合ってくださいな」大友さんが言う。
彼は困ったような顔をしたが、彼の目の前に立った兄が彼にそれを渡すと渋々といった体で受け取った。
「先に聞いていたら練習したのに」
そう言いながら彼はそれを脚の上に乗せた。
それはバンドネオンだった。
自分の記憶よりも少し小さめかもしれない。
大友さんの奏でるリズムが変わった。
「オーソドックスにこれから参りましょう」
と大友さんが奏で始めたのは如何にもタンゴという感じの曲で、踊り手たちも一瞬「お?」という顔をしたがすぐさまペアとなり(必ずしも男女というわけではなかったが)踊り始めた。
それよりも驚いたのは、彼が大友さんの演奏に合わせて伴奏をとるかのように演奏を始めたことだった。両手の指がボタンを押し、腕だけでなく膝も使って、バンドネオンを動かしている。
音楽は嫌いではなさそうだと思っていたが、鼻歌すら聞いたことがなかった。
周囲の人々もこちらを振り向いて彼の演奏する姿を見た。
彼は恥ずかしそうに下を向いたが、バンドネオンの蛇腹を広げるとともに顔を上げた。
曲はどこかで聞いたことはあるが曲名はわからない。
大友さんが「オーソドックス」と言ったということはタンゴの定番なのだろう。
「続いてこちらいきます」大友さんが言う。
バイオリンがこれまた聞き覚えのある曲を奏で始めた。
日本人だったらおそらく誰でも知っているであろうと思う、ポピュラーソングだった。店内の人たちも手拍子を打つ。アイドルグループのそれを長くイギリスにいた彼も知っているだろう。だけど演奏となるとどうだろう?と思ったが、彼はメインのメロディを弾き始めた。
踊り手たちはアイドルグループよろしく振りにアレンジを加え踊る。
みんな手を叩きながら歌い始めた。
サビの部分の振り付けはとても印象的で、歌っていたみんなも振りを真似し始めた。江子さんも楽しそうに歌っている。
間奏を経て今度は大友さんがメロディを彼がバックについた。
阿吽の呼吸といった感じで、演奏は完璧だった。
演奏が終わった時みんながわーっと拍手した。
自分も力いっぱい拍手した。
彼にこんな特技があるなんて知らなかった。
「少し休憩しましょう」大友さんが言った。
「マスターがギターを用意してくれるらしいので後半はギターで」
大友さんがそう言うと、周りはまたわぁっと声が上がった。
江子さんが大友さんからバイオリンを受け取った。
「驚いたよ」
そう言うと彼が照れくさそうに笑った。
「一度聞くと大体演奏できるんだけど、その楽器がバンドネオンってオツだろう?」
いつの間に隣にいた彼の兄が言った。
「だって、なんだか不思議な楽器なんだもん」
子どものように言う彼の頭を、ポンポンと兄が撫でる。
嫌がるそぶりを見せることなく、彼はまた少し恥ずかしそうに笑った。
「あとでリクエストしてもいいかな」
「知ってる曲でお願いします」
いたずらっぽく彼が応えた。
まだまだ彼には驚かされる。そう思うとなんだか嬉しくなった。