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金魚と眠る

誰が落ちた?誰が?
・・・この子が残ったところで何の役にも立たない。
・・・お荷物なだけ。邪魔なだけ。
・・・どうせ死ぬのならこの子も連れて行けばよかったのに。
この子って誰?この子は…
「あんたらの方こそ役立たずだ」
お兄ちゃん、怒らないで。
「おまえたち、二度とこの子の前に現れるな」
お祖父様、僕がいなければいいんだよね。
僕が落ちるから。
だから、お兄ちゃん、僕の手を離して。
このままだと、お兄ちゃんも落ちちゃうよ。

気持ちが悪い。
何度も繰り返して見る怖い夢。

僕の記憶は途切れ途切れ。
気がついたら、自分は母と祖母と暮らしていた。
そこにお兄ちゃんが現れたのはいつだったろう?
お兄ちゃんは誰よりも僕のそばにいてくれた。
お兄ちゃんとお祖父様と3人の暮らしは心地よかった。
怖い夢は見なかった。

母は?
母はいつからいないのだろう?
父は?
誰も語らない。だから僕も訊かない。

ある日、お兄ちゃんが居なくなった。
悲しくなって、泣いてばかりいた。
お祖父様が僕を連れてお兄ちゃんに会いに行った。
お兄ちゃんが「会いたかったよ。青藍」と言って抱きしめてくれた。
また3人で暮らし始めた。
そこがイギリスだと知ったのはだいぶ後だ。
そして高校生になる頃、再び、3人で今度は日本で暮らし始めた。
その後、お兄ちゃん、従兄の蒼月兄さんがお祖父様の仕事を継ぐことになったので、僕は兄さんの邪魔になってはいけないと思って家を出た。お祖父様の「森の家」に住むことにした。
お祖父様も再び海外に行くことになり僕たちはそれぞれがひとりで暮らし始めた。

そしてまた怖い夢を見るようになった。
何も言わないでいるのに兄さんは僕が怖い夢を見ていることを知っていた。

「蒼月は僕の両親のことを知っている?」
ある日、思い切って訊いてみた。
蒼月兄さんは珍しく少し驚いた顔をした。
「知っていることは少しだけだ」と答えた。
「聞かせてほしいのだけど」
「青藍は何を知っている?」
僕は少し考えた。
かすかに母の姿を覚えている。顔は知らない。母親の写真一枚見たことがない。
蒼月兄さんは写真を一枚テーブルの上に置いた。
若い女性がふたり写っている。とてもよく似たふたりで、揃いの浴衣を着て、金魚の入ったビニル袋を持って笑っている。
「右が俺の母親で、左が青藍の母親。ふたりは双子で、ふたりとももういない」
「どうして?」
蒼月兄さんは静かに首を振った。
「お祖父様が語らないからね。だから俺も母のことはよくわからない」
本当だろうか?と一瞬疑ってしまった。僕に同情している?それとも隠さなくてはならないことがある?
「その写真、持っていてもいいよ。俺と青藍が似ていると言われるのは、お互い母親似だという証拠写真だ」
そう言って笑った。確かにその顔は写真のふたりによく似ている。
「今まで俺が独り占めしていたから、これからは青藍が持っているといいよ」
「名前は?」
「あぁ。姉である俺の母親が蒼の字でアオイ。青藍の母親が藍の字でアイ」
「本当?」
「4人ともみんなお祖父様がつけた名前だ」
「父のことは?」
蒼月兄さんは首を振った。
「お祖父様にとって俺たちの父親はふたりとも忌むべき存在らしくて、本当に何も教えてくれない」
ふたりの写る写真を見る。こんなに幸せそうに笑っているのにもういないだなんて。
「写真は兄さんが持っていて」
「わかった」
いいのか?と訊かないのが兄さんの優しさだと思った。

あれ以来、怖い夢を見た後は、何故か写真のふたりを思い出す。
あんなに楽しそうに笑っていたふたりがもういない事実を思い出す。
ひどく苦しくなる。
そして、自分がここにいることに後ろめたさを感じる。
もうすっかり大人になった今でも怖い夢を見る。
いや、大人になったからこそ、よく見るようになったのかもしれない。
あの写真を見た後、僕は忘れていたことを思い出した。
落ちたのは母だ。
そしてそれを僕は見ていた。
母は写真に似た顔で、だけどその笑顔はちっとも幸せそうではなかった。笑っているのか泣いているのかわからない顔していた。
母の話をぼんやりと聞いたこともあった。あれは確か13歳の時だった。一度日本に帰ってきたが、すぐさま祖父と共に渡英した。あの時親戚が僕に聞かせたくないことを言ったがために祖父が激昂したのだった。僕たちがすぐさまイギリスに戻ったことを兄さんは驚いて、喜んで、そして、その理由を祖父から話を聞いて祖父以上に怒っていた。
それらを全て忘れていた。
どうして忘れていたのだろう?どうして今更思い出したのだろう?
ひどく気持ちが重くなる。
いっそこの気持ちと共に僕も落ちていけたらどれだけ楽だろう?
そして最近思い出したことがあった。
あの時、落ちていった母の後を追おうとした僕を必死で抱きしめて止めた「お兄ちゃんの顔と声」を。
「おまえまでボクを置いていくな。ボクをひとりにするな」
そのことを思い出したと言ったら、兄さんはどんな顔をするのだろう。

蒼月兄さんのいるビルには不思議な水族館がある。
兄さんが2年掛で作ったそれは、水族館と呼ぶには小さいかもしれない。
熱帯魚と海月と鸚鵡貝と金魚の水槽があるだけ。でもそれぞれの水槽は大きい。一番小さい鸚鵡貝の水槽も3匹の鸚鵡貝の住処にしては大きかった。
薄暗い灯りの中にそれぞれの水槽が青く光る。
水槽の前には椅子が置いてあって、のんびりと眺めることができる。
備え付けのベンチもあるけど好きな椅子を選んで水槽の前に置くこともできる。
金魚の水槽は球形で、展示スペースの中央にある。
好きな場所から眺めることができる。
そしてそこに懐かしい形の椅子がある。
イギリスにいた頃、お祖父様の部屋にあったロッキングチェア。シェル型で肘掛けにも高さがあって、すっぽり入れる感じが好きだった。
見つけた時、昔のように椅子の上で膝を抱えるようにしてみたら、大人になった今でも椅子に収まったのには驚いたし嬉しくなった。
「あまり成長してないということかな?」
小柄とか華奢とかよく言われるが、正直あまり嬉しくない。けど、こうして収まることができるのならば喜ぶべきだと思う。
膝を抱えて、椅子の揺れに任せてぼんやりと金魚の泳いでいる水槽を眺める。
キラキラと金魚は揺れる。
そういえば、金魚を持つふたりが着ていた浴衣の柄も金魚だったことを思い出す。
幸せそうに嬉しそうに笑うふたり。
どうして死んでしまったのだろう?
いつかお祖父様が言った。
「生まれたからには必ず死ぬ。肉体の死なぞ恐れることはない」と「本当の死は忘却。誰もがその者の存在を忘れることだ。だから命あるものでも誰もがその存在を知らない、認知していなければ、それは死に等しい」
僕たちが知らなくても、父や母を覚えている人はいるだろう。でも、僕の中では父も母も、たとえ生きているにしろ死んでいることと同じ状態なのだ。
何も知らない。
ただ、蒼月兄さんからあの写真を見せてもらった日から、少しだけ、僕の中の母が動き出した。それは僕の母であって、母ではない。写真の中の女の子だけど。それでも、その人はそこにいた。
あのふたりがこの水槽を見たら喜ぶのだろうか?驚くのだろうか?
そんなことを考えているといつの間にか眠ってしまう。
ここで眠っても怖い夢は見ない。
夢の中でも金魚は揺れ、浴衣姿のふたりが懸命に金魚を掬おうとしている。
「青藍も掬ってみる?」
それは母なのか?伯母なのか?それとも蒼月兄さんだろうか?

気がつくと柔らかいブランケットが掛けられていた。
蒼月兄さんだ。
「おはようございます。ブランケットどうしたらいい?」メッセージを送る。
「おはよう。今、受け取りに行く。ブランケットの礼にコーヒーを淹れてくれ」とすぐさま返ってきた。
それなら自分が兄さんの部屋に届けてもいいのにと思ったが、兄さんがこっちに来るのを待つことにした。
あの時、蒼月兄さんが僕を必死で抱きしめてくれたから僕は今ここにいる。兄さんが僕を呼んでくれるならば、僕はここにいてもいいのかもしれない。
蒼月兄さんがやってきた。少し笑っているようだった。僕は拗ねたフリをする。
「よく眠れた?」
僕は頷きながらブランケットを渡す。
「マスターの店のコーヒー豆あるから淹れてくれよ。急いで帰らなくてもいいんだろう?」
「いいよ」
蒼月兄さんが嬉しそうに笑う。
その笑顔は写真のふたりの笑顔によく似ていた。
この笑顔に救われている、そう思った。
兄さんが僕にその笑顔を向けてくれる間は、落ちることはないだろう。他人事のように僕は思った。

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