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流通のない土曜日 and more.

よく考えてみたら、この町の駅舎にももう少し商業施設が入っていたら便利だったろうに。とコンコースを歩きながら思った。
もっとも駅を出れば、そんなことを気にすることもなくなる。
本屋のドアに「本日、3月9日は、県内全域、流通のない土曜日となっています」の貼り紙を確認する。
「おもてにも貼ってたんだ」
本屋の前を通り過ぎて隣のコーヒー店に入る。
「こんにちは」
まだそう言っていい時刻だろう。
「おや珍しいですね。こんな時間に」
マスターは言った。
「えぇ。まぁ」
コーヒー店に来るのは大抵は昼頃だ。
カウンターに椅子が3つとふたり掛けソファの前に丸テーブルがひとつ置かれた席がある。コーヒー豆の販売がメインだ。
正直なところ、自家焙煎のコーヒーを販売するだけで生活するのは難しいのではないか?と思っていた。
店はコーヒーの他に厚切りトーストとチーズトーストも食べることができるが、コーヒー豆を買うついでに一杯飲む客ぐらいしか見かけない。
今も店内にいる客は自分ひとりだ。
「ちょうどよかった。新しいブレンドがちょうどいい具合に仕上がったところでして。味見していただきたいなと思っていたところだったんです」
この店の豆は甘味を感じる。カフェオレにしても美味しい。
妻や娘と一緒に飲むこともある。だけど彼女らはコーヒーはいくつもある飲み物の中の一つの選択肢でしかない。だから、お気に入りのこの豆はひとり分だけ挽いて、ひとりで飲む。
僕の妻は、適度に僕を放っておいてくれる。
それは結婚する前からだった。
むしろ、同じ部屋にいて、お互いに気を使わずにお互いの好きなことをしていてもそれでいて、一緒にいることで安心できる。それがお互いにとって結婚の決め手だった。
マスターは金属フィルターでコーヒーを淹れる。コーヒーの味がしっかりと出ると言われて、ペーパーフィルターと飲み比べさせてもらった。確かに同じ豆なのに味が違った。初めての金属フィルターでのドリップだった。僕はマスターおすすめの金属フィルターを購入するほどあっさりとハマってしまった。
マスターは手動のミルで豆を挽く。
「そういえば」
僕は昼間飲んだコーヒーの話をした。
「サイフォンで淹れるコーヒーなんて随分と久しぶりで」
「するりと飲めちゃう感じだったでしょ?」
「そうですね」
「高温で出すのに不思議だよね」
コーヒー店のマスターが不思議というのは何だか面白い。
でも、実際、マスターの淹れるコーヒーは少しぬるめで柔らかく飲みやすい。
サイフォンで淹れたものも柔らかく感じたけれど、全く違う柔らかさだ。
マスターにそう告げると「ふふふ」と笑った。
「実は家ではたまにサイフォンで淹れるんだ」
そう言いながら、マスターはコーヒーを落とし始めた。
店では金属フィルターでのドリップと、水出しのアイスコーヒーだが、家には業務用のエスプレッソマシーンもあると聞いたことがある。
「サイフォンもあるんですか?」
驚き反面、当然だと思う気持ちもあった。
「まぁ、でも、自分の豆はドリップが一番合うね」
コーヒーのいい香りが漂う。
僕はカウンター席に座った。
バーを経営しているマスターの友人から譲られたというカウンターは赤い天板で、よく磨かれているが年季が入っている。
布製のコースターは、マスターお手製だという。
様々な柄・色のコースターに美濃焼だというタンブラーに注がれたコーヒーを置く。
一杯200円。
商売になっていないと僕は思う。
「さぁさぁ。飲んで感想を聞かせて」
マスターの声は弾む。
僕はそっとコーヒーに口をつけた。
いつにも増して甘い香りがした。
「あっ」
思わず声が出た。
「美味しい」
「本当?」
香りだけだとフルーティな感じかと思ったがナッツを思わせる豆の味もした。
「コーヒーだけでおやつになるというか。本当に美味しい」
仕事をしながら飲むコーヒーではない。
仕事の手を休め、味わうコーヒー。そんな感じだ。
マスターはコーヒーサーバーに残っていたコーヒーを小さなカップに注いで飲んだ。
「うん。うまくできた」
ゆっくりと味わうつもりがあっという間に飲んでしまった。
さんざん悩んで、いつものブレンドと100gずつ買うことにした。
「新しいブレンドも定番になるんですか?」
「うーん。どうだろうねぇ。豆の流通具合だね」
特別な豆なのだろうか?
「あ、そういえば」
僕は隣の本屋の貼り紙の話をした。
「完全土曜休配のことじゃない?発売日が土日に被っちゃうとズレるヤツ」
なるほど、と思った。
今日発売の本は届いていませんよ、ということか。
「本だけで済んでいるうちはいいけど、いろんな流通に休みができたらスーパーやコンビニも大変だよね。毎日、店が開いていて当たり前、な世界はそのうちなくなってしまうかもしれない」マスターは言った。
「今は何だかSFみたいな感じだけど、そのうち本当にそうなっちゃうかもね」
マスターの店は不定休。
「うちも休みが増えたりして」
「それは困ります」
僕が慌てて言うとマスターは「ふふん」と笑った。
「まぁそれも、流通次第だねぇ」
マスターはコーヒーの入った袋をふたつ並べてそう言った。


もとはといえば、コーヒーを買いに出たんです。