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夜に聞こえる

新しく越してきた町はこじんまりといろんなものが集まっていて暮らしやすそうだった。
1年間の期限付きで技術指導の名目で地方の会社に出向した。それまでも、会社から技術協力の名目で大学の研究室に勤めていたが、研究室の教授の勇退でそれまでの研究をそのまま本社が受け継ぐことになった。研究室に他の教授や助教授でもいれば研究室はそのまま残ったかもしれない。でも、その研究室は勇退した教授ひとりだけだった。研究室のスタッフも半分は契約社員として残ったが、後の半分は他の研究室に移動したり、これを機に研究職を辞めたりした。
「坂下さんは会社に戻るだけですからいいですよね」
本社の技術部連中とうまくいかないでの研究室勤務だった自分に居場所はなかった。
そのまま辞めるにしても次の仕事を探さなくてはなくならない。どうしたものかと悩んでいたら、勇退した教授の推薦でH市にあるこの会社に出向という形になった。
教授の教え子が経営する会社だった。
教授からの紹介ということで、住む場所も以前よりも格段に上の部屋を用意してくれた。アパートというより集合住宅。様々な間取りの部屋がパズルのようにハマって立方体の一つの建物になっている。隣人と玄関が並ぶことのないその建物に4つの部屋があった。自分の部屋は2階の1LDK。
「田舎ですから、家賃は安いんですよ」
自分とあまり変わらない年齢の社長が言った。
研究室のメンバーで連絡網代わりに使っていたLINEのグループは解体した。
同じ大学の別の研究室に移ったふたりと、研究職を辞めて、実家の農業に従事することになった相沢くんとは個人的にLINEの交換をした。
あとは勇退なさった教授とも個人の連絡先を教えてもらった。
でもここでは自分の知る人は誰もいない。もちろん自分を知る人も誰もいない。
もといた町から車で2時間もかからない場所なのに、すごく遠くに来たような気がした。
大学のあった町は学園都市として再開発された町のせいか、若者も多く独特の雰囲気があった。
農業を中心に様々な産業で生きているこの町とは大きく違う。
ほとんどが大学の研究室で過ごしていた自分にとって、この変化は思ったよりも大きかった。
引っ越しの荷物も片付いた。大した量ではない。
服と本を仕舞い、パソコンをセットしたら終了だ。明日にはインターネットの引越も終わる。昼間のうちに引越しの挨拶を済ませた。1階の小さな子どものいる家族には「子どもが騒ぐことがあるので」と言われたが、子どもが騒ぐのは当然のことだ。そのことを言ったら「ありがとうございます」と言われた。今の時代の子育ては大変そうだ。
以前は家具付きの物件に住んでいた。そのことを社長に言うと家具付きの物件を用意してくれた。
「わざわざ1年間のために新しいのを買ったり送ったりは面倒でしょう?」
確かにそうだが、そういうものを何も持たない自分が根なし草のように思えた。
建物内での防音は完璧で、どこかの部屋で玄関の扉が閉まっても、窓を開けない限りは気が付かないし、双方が窓を開けなければ声も何も聞こえない。1階のワンルームに住む若い男は店でピアノを弾いていると言った。
「生活の時間が合わないのでいろいろご迷惑をかけるかもしれません」
お互い様だが、彼は自分が「少数派」側だと自覚している。少数派は少数だというだけで間違った存在ではないはずなのに。
同じ2階に住んでいるもう1組は、同じ会社に勤務している同性のカップルだった。
引越しの手伝いもしてくれたし、社長の紹介も受けた。
「何かあったらこいつらに訊いてください」
ふたりとも二十代後半で、ひとりは自分と同じ部署になる。もうひとりは社長の甥であり経理をしている。
ふたりとも感じがよく、社長も彼らと自分の弟か何かのように接していた。
なるほど、ここは生きにくいと思っている人が集まる場所のようだ。
そしてここはおそらく住みやすい場所だ。

3月の終わりだというのに妙に暖かい夜だった。
冷蔵庫から炭酸水を取り出す。レモン風味の炭酸水。
Bluetoothで繋がったスピーカーから微かに音楽が流れる。曲名も知らない曲。ジャンル設定しただけで、自分の知らない曲の混じったセットリストで曲が流れ出す。誰かの作ったセットリスト。
今度の会社は測量会社だった。
地質調査も行う。
数年前に大きな地震があり、あちこちの断層に影響も出た。
新ためて調査が必要になり彼らの仕事は忙しさを増すと同時に、新しい機械を導入して、より正確な情報を得る必要があった。
その機械を開発したのが自分の所属していた研究室だった。
自分にとっては見慣れた機械。実験の際に様々な条件下で計測もした。しかしその結果は誰かの役に立つというよりも、自分たちのために使うだけのものだった。
いろいろピンとこない。
現実味が薄い。
明後日からの出社だが、自分はいまだになんのスイッチも入っていない。
こもった空気を入れ替えようと窓を開けた。
部屋には空調もあるが窓を開ける方が手っ取り早い。
もといた町は再開発の際環状線の地下鉄を作った。地上に出てる部分は少なく、地上には少し離れた町の新幹線駅からの在来線が1時間に上下線各1本ずつ走らせている。この町には地下鉄はないけれども、やはり新幹線駅からこの町、そしてさらに海の方に続く在来線があり、1時間に上下線各1本ずつ走っている。
そこだけはあの町と一緒だった。
お互いの駅は直接繋がってもいない。
普段はあまり乗ることもなかった車で、この町に来た。2時間程度しか走らせていないが、本当に久しぶりの高速道路の運転はかなり疲れた。
引越し前に車はメンテナンスに出したので調子は良かったが自分自身はかなりダメージを受けている。
それなのに眠れなかった。
窓を開けて僅かなベランダに足を出す。
ベランダも立方体に収まるデザイン。隣にあるはずの窓も見えない。プライバシーは完璧だ。
テーブルの上のスマホが着信を告げる。
少し億劫だったがスマホを取りに中に入る。
木製の座卓テーブルとキャラメル色のソファは前の住人の置き土産だそうだ。前の住人は今はスペインにいるという。社長の甥が教えてくれた。
LINE にいくつかのメッセージが届いていた。
「引っ越しは無事終わりましたか?」
どのメッセージも書き出しは同じだった。
今届いた相沢くんのメッセージには「住所を教えてください。野菜送ります。ちゃんと日持ちするものを保管方法と一緒に送ります」ともあった。
それぞれに返信を返しながら再び窓辺に座る。
炭酸水のペットボトルが濡れるのが少し嫌だったがペットボトルカバーを付けないでいた自分が悪いと諦めた。
気がつくと22時を回っていた。
今メッセージを送ってきた相沢くんはともかく他の人には今時分の送信はまずかったろうか?と思っていたら次々にスタンプで返信が返ってきた。
それぞれと何回かやり取りの往復をして最後はおやすみのスタンプを送った。
「若い子と少しも変わらないじゃないか」
と自分のしていることに笑った。
シャワーを浴びて寝ようと思った。
立ち上がり窓を閉めようとしたら、列車の音がした。鉄橋を渡る音だ。ずいぶん昔に聞いた音だ。どっちから聞こえるのかわからない。昼間の窓からは橋は見えなかった。
列車の音はしばらく続いた。在来線の2両編成にしてはおかしい。
「そうか貨物車か」
貨物用の線路もこの町を通っているのだろう。
確かあの町の西の外れにも貨物用の線路が走っていた。風のない夜にだけ貨物車の通る音が聞こえた。
「繋がっていたんだ」
何故かそんな言葉が口から出た。
寂しいと思っていた自分に改めて気がついた。そして、どこかでホッとしている自分にも気がついた。
そして、どうやら貨物車はまだ見ていない川を渡り切ったようだった。