【38 ワイン】#100のシリーズ
友利が議員になる前の話。
その頃は友利もひとりで気軽に出掛けられた。
だから自分も気軽に呼び出すことができた。
ボージョレ・ヌーボーの解禁になった日だった。
ワイン好きの友利が上等な物を用意できたから、残業をせずに帰ってこいというメッセージを寄越したが、すでに確定していた残業を変更するわけにはいかなかった。
それでもいつもの残業より早めに帰途につくことができた。
ショートカットに使っている高架下の通路に差し掛かった時だった。
そこは少しトンネルになっていて、通路の中に灯りはあってもあまり感じのいい道ではない。つい早足になる。
通路で男と女が喧嘩をしているのに気がついた。あまり道幅のない通路のど真ん中でふたりは向かい合い罵り合っている。
どちらも相手の言い分など聞いていないのではないか?声が反響して何を言っているかもわからない。
さっさと通り過ぎるにかぎる。そう思って壁に寄って歩いていた。
いきなり女の持っていた鞄が視界に入った。
驚いて思わずふたりの方を向いてしまった。
鞄➖ショルダーバッグを女が振り回している。男を鞄で殴ろうというつもりなのだろうか。
それを避けた男は自分に気づいていなかったのか、それとも目測を誤ったのか、背中をぶつけてきた。
男がこちらを向いた瞬間、女にはそれが隙に見えたのだろう。こちらに向かって鞄を振り回した。かろうじて男は鞄を避けた。避けた鞄が自分に当たり眼鏡が落ちた。眼鏡を拾おうとした自分はふたりを見ていない。何があったかわからないが、再び男が自分にぶつかった。
バランスを崩して自分は壁にぶつかった。
カシャと、嫌な音がした。
女が眼鏡を踏んでいた。
何を思ったのか女は二度三度眼鏡を踏んだ。
「バカ。それ俺のじゃねぇし」
男が言った。
「え?」
女は声のする方を向いた。
「え?え?」
女は自分と男を交互に見て「何?何よ?あんた、誰?」と言った。
「すみません」
謝ってきたのは男の方だった。
「怪我、ないですか?」
「えぇ。大丈夫です」
「あのう…眼鏡…」
原形を留めていない眼鏡を男は拾ってくれた。
「すみません」
「あなたが謝ることないですよ」
眼鏡だったものを受け取る。
女はまだ「誰よ。あんた。誰よ」と喚いている。
「彼女、大丈夫ですか?」
男はチラリと女を見ると溜息をついた。
「彼女、どうにかした方がいいんじゃないですか?」
「すみません」
男は女の方を向いた。
胸ポケットからスマホを出して友利に連絡した。
高架下の通路で眼鏡を壊してしまったから迎えにきてほしいと言った。
眼鏡なしだと階段の段差がわからない。
友利は「すぐ行く」と言って電話を切った。
「あのう…大丈夫ですか?」
「あぁ。ただ見えないだけだ。0.01なもんでね」
男に笑って答えたつもりだった。
「同居人が来る前に行った方がいいよ。同居人、かなり怖いから」
嘘ではない。そう言うと男は「すみません」と言って頭を下げ、女を連れて通路を歩き出した。女はまだ少し興奮しているようだった。
友利と遭遇しないことを祈った。
家までは歩いても10分程度だが最後に階段道を登らなくてはならない。
眼鏡なしでしかも夜に蹴躓かずに階段を登る自信がなかった。
手の中の眼鏡は折れ曲がった針金でしかなくなっていた。
思ったより早く友利が来た。
めちゃくちゃになっている眼鏡を見て友利が「さっきの奴らか?」と言った。
「さっきの奴ら?」
「変なカップルだ」
「変な?」
「女がずっと男を罵っているんだ。だからすれ違いざまに『うるさい』と言ってやったんだ。そしたら女が泣き出して、男が『すみません』って」
多分あのふたりだろう。
「どうだろう?そんなふたりはここを通っては行かなかったな」
嘘をついた。
「じゃあ、これは?」
「酔っ払い」
答えながら、女は本当に酔っていたかもしれないと思った。酒の匂いはしなかっただろうか?覚えてない。
自分に絡んだ酔っ払いは反対方向に行ったと話した。
「ふうん。怪我はない?」
「壁にぶつかったくらいだ」
「ふうん」
友利は持ってきた予備の眼鏡を出した。
「ありがとう」
眼鏡さえあれば大丈夫。
あとは先に行ったふたりと会わないことを祈るだけだった。
「やっぱり、俺がすれ違った妙なカップルだろう?おまえに絡んだの」
「何の話だ?」
秘書に送られて帰ってきた友利が、「貰い物だ」という白ワインを開けた。
あれからまだ3年ぐらいしか経っていないのに、自分たちを取り巻く環境は大きく変わった。
自分と友利の同居が解消されていないのは奇跡的にというしかない。
友利が死んだ父親の跡を継いで国会議員になった際、一度解消しようとしたが友利の母が「何を今更」と解消を却下した。
「この子の面倒を今更私が見れるわけないでしょ?お仕事に関しては夫の秘書だった三枝がなんとかできるけど、私生活はきぃ君がいないとダメなのよ」
年代物のワインと一緒に改めて彼女は息子を自分に押し付けた。それが2年前だ。
「何の話だ?」
「おまえの眼鏡をぐしゃぐしゃにされたことあったろう?ボージョレの解禁日に」
「あったね。そういうこと」
そう言ってワインをひと口飲んだ。
「美味しいね。飲みやすい」
覚えていたんだ。少し驚いた。
「あれ以来眼鏡壊されたりなんてことないけどさ。おまえに何かあっても簡単に助けにいけなくなった自分が嫌なんだ」
友利は至極真面目な顔で言う。
「だからって、おまえに気をつけろとばかり言いたくないけど…気をつけてくれよ」
「わかっているよ」
グラスの中身を飲み干す。
正直あれ以来、あの高架下の通路は夜は通らなくなった。
友利は互いのグラスに再びワインを注ぐと「末永くよろしく」と言って、グラスをコツンと当てた。
なんだか可笑しくなった。
「こちらこそ」
今更のように乾杯して、ワインを飲んだ。
こちらのふたり。このエピソードも交えて書いてて、ちょっと違うな?と思って削除して、次のテーマがワインなのを見て、削除した分を復活させて成仏させようと思ったけれどなんだかオチが見えない話になった。
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