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蓮池

朧げな記憶だが、幼い頃、5歳くらいまで僕は祖母と住んでいた。
祖母と多分母と暮らしていた。
多分というのは、あんまり僕の記憶に母がいないからだった。
祖母の死もよく覚えていない。ただ、2歳上の従兄が「お祖母様が死んでしまったから、僕とお祖父様のお家に行こう」と部屋から連れ出してくれたのをしっかりと覚えている。その時、漠然と祖母とはもう会えないのだと思った。そして、その時すでに僕の中にも、そして現実世界にも僕の母親は存在していなかった。
本当に小さな頃はよく笑っていたと思う。
2歳上の従兄が時々祖父と訪ねてきては一緒に遊んだ。くるくる駆け回るだけでも楽しかった。
でも、祖母が亡くなった頃は、僕はもう笑うこともあまりできなくなっていた。
どうしてなのかはわからない。今でも優しく厳しい祖母のことは穏やかな思い出の中にある。
特に温室。
若い頃は研究者だったという祖母は温室をその名残だと話していたという。
温室の中は蓮池だった。
水に浮かんで咲く花は僕にとっては魔法の花に見えた。
白やピンク、黄色や薄紫。花の形も似ているようでみんな違う。
祖母の家には何人かの使用人がいた。
大抵の人たちは一日中忙しそうに動き回っている。
その中でふたりだけ、あまり忙しそうに見えない人がいた。
ひとりはドクターと呼ばれていた。
背の高い男の人で、目の大きい人だった。他の人とは違いお昼過ぎにやってきて、祖母の部屋へ行く。そしてそのあと僕と少し話をして帰って行く。
僕に「おみやげ」と言っては絵本や図鑑を持ってくる。渡すだけでなく、中を開いて絵本などは僕を膝に乗せて読んでくれた。
その人から少し消毒液の匂いがしたのを覚えている。
祖母も優しかったけれども、そんなふうに絵本を読んでもらったりということはなかった。
もうひとりは女性だった。祖母とは違った白い髪はキラキラしていて長かった。それをいつも一本に三つ編みにしていた。そして、その人の瞳の色はとても不思議な色をしていた。
その人は時々来ては、すぐに温室へ向かう。その人が来るといつも庭や家の手入れをしているおじさんたちの誰かが温室に来ていろいろしている。その人はおじさんたちのしていることをじっと見ている。
僕はそれを温室の外から見ていた。
僕に気がついたその人が、中に入るよう手招きをした。
僕は驚いて走って家に帰った。
それが二度、三度。
その人にも興味があったし、何よりも温室の中が気になっていた。
その頃はまだ温室に入ることはなかったのだ。
温室には蓮池だけでなく植物はあった。比較的葉の大きな植物が多かったので、外からだとそれらの葉が邪魔をして蓮池があるなど知らなかった。
その日も懲りずに温室の外から中を眺めていた。
温室の外に木のベンチがあった。背もたれがないベンチは僕がよじ登るのにちょうどいい大きさだった。
祖母がベンチにいる僕の前にきた。
驚いた。それまでそんなことはなかったからだ。
「一緒においで」
一度家に入った。
靴を持ってくるように言われて、僕は両手に靴を持って祖母のあとをついていった。
家の中でも僕が普段行かない方へ進んでいく。祖母の家は広かった。昔は「植物環境研究所」という名の建物だった。
奥に行くと、玄関のようなところがあって、祖母は靴を履くよう僕に言った。祖母の靴らしきものもあって、僕はその隣に持っていた靴を置いて履いた。
僕が靴を履き終えるのを待って、祖母が靴を履き、扉を開けた。
僕の身長より少し低いところまでは壁だったけどそこ以外は透明の壁と天井の通路があった。通路はほんの少しですぐ先に扉が見えた。透明な扉だった。
その扉を中からあの人が開けた。
「ようやくきてくれたわね」
その人は言った。
蓮池がメインの温室は外から見たのと全く印象が違った。
僕の中ではドクターが持ってきてくれた本にあったアマゾンのイメージだった。鬱蒼としたジャングル。
だけど、温室の中はとても明るかった。
少し湿った空気の中、たくさんの花が水の上で咲いていた。
「きれいでしょ?」
女の人はしゃがんで僕の顔の近くでそう言った。
ドキリとした。祖母とドクター以外でこんなに誰かと顔が近づくことはなかった。僕をお風呂に入れてくれるハセガワさんもミタカさんもこういう風には近付かない。
「おや、クララは平気なようだね。アマナイくんだけかと思ってたわ」
祖母が言った。
今思うと平気というのとは少し違う。驚きすぎて動けなかっただけだった。クララと呼ばれたその女の人が綺麗すぎて驚いた。ガラス越しに見ていた髪は本当にキラキラしていたし、目の色は何色とも言えない不思議な色をしていた。青いジーパンに白い開襟シャツの袖を捲っている。
「池は危ないけど、誰かがいる時は入って来ていいからね」とその人は言った。
それからはしばしば温室に行くようになった。温室に繋がる扉の前にはそのための僕の長靴が用意されるようになった。
もっとも、温室の中に入ると、池が一番よく見える場所にあるベンチに座る。その時に長靴は脱いでしまう。
そして池を眺めているうちに眠ってしまう。温室の中の空気は眠気を誘う。ともすれば夜のベッドよりもぐっすりと眠れていたかもしれない。
何度目かの温室訪問の時、クララさんからぬいぐるみをもらった。
クララさんのお母さんが作ったという獏のぬいぐるみだった。
少しつぶれた感じの柔らかいぬいぐるみを「枕にしてもいいのよ」とクララさんは言った。
時には祖母も一緒に温室に行き、祖母は蓮の花の絵を描いていた。
蓮の花は入れ替わりでずっと咲いていたような気がする。

何かがあって、しばらく温室に行けないでいた。
クララさんからもらったぬいぐるみだけが温室の香りを漂わせていた。ノアという名前をクララさんがつけてくれた。
ドクターはほとんど毎日真っ直ぐに僕の部屋に来るようになっていた。
僕を膝に乗せ絵本を読んだり、ドクターの好きなバイクの話を聞かせてくれた。僕が眠くなるまでドクターは話をして、眠った僕をベッドに入れて帰って行く。
ある日、ドクターが僕を温室に連れて行った。
その頃、祖母も臥せっていたのか僕ともほとんど合わなかった。
代わりに祖父がその家にいた。
普段は仕事で外国にいるのだと僕に教えてくれたのは、祖父と一緒に家に来た2歳上の従兄だった。祖父は忙しい人のようで、朝食時に会うくらいでほとんどは仕事で家を空けていた。
従兄が学校に行っている間、僕は大抵自分の部屋でクララさんからもらったノアと一緒に過ごした。時々はドクターからもらった本を眺めることもあったけど、たいていは何もせずただぼんやりとしていた。何もできないというのが正しかったかもしれない。
その僕をドクターが抱き上げて温室に連れて行った。僕はノアを抱いていた。
温室にはクララさんがいて、扉を開けてくれた。
そしてドクターの腕から僕を受け取ると、ぎゅっと抱きしめて頬にキスをしてくれた。
初めてのキスだった。
僕は驚いたけど、クララさんにぎゅっと抱きついた。
クララさんからは蓮の花の匂いがした。
でもそれが、僕が温室を訪れた最後であり、クララさんに抱いてもらうことももうなかった。

それから間もなくして祖母が亡くなった。

僕は祖父と従兄と暮らすためにその家を出た。
家は再び「水生植物研究所」という施設になった。
そして温室には今でも蓮の花が咲いている。
でもそこには、ドクターもクララさんもいない。
見知らぬ、だけどとても穏やかで親切な人たちが温室と祖母の残した数々の資料を守っている。
クララさんからもらったノアだけが、あの頃の思い出を共有してくれている。もうノアからは蓮の香りはしないのだけど。