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バッティングセンター

礼儀正しい若い男だった。
うちはほとんど常連客で保っている施設だ。一見の客は珍しい。
200円分で90kmの球を球を打ったあとこちらにやってくると「すみません。いくつかお尋ねしていいですか?」と言った。
細身の大学生くらいだろうか?猫の目を思わせる綺麗な目をしていた。
指が長く、体のバランスでいえば、決して熱心に野球をしてきたとは思えないが、バッティングフォームも綺麗だったし、来る球に対してのタイミングもバッチリ。一言で言うとセンスがいい。ホームランにはならないまでも飛距離もあった。
「こちらに来る際、私物のバットを持ってきてもいいですか?」
「あぁ、大丈夫。だけど硬式用のバットの方が傷がつかなくていいよ。軟式といってもバッティングセンターの球は硬いから」
「なるほど。わかりました」
うんうんと頷きながら「それともうひとつ」とテレビの刑事のようなことを言うものだからつい笑ってしまいそうになった。
「ヘルメットとか被ってやってもおかしくないですよね?」
「そりゃあもちろん。ここにも用意しているけれどもなかなか被る人いないんだ」
「わかりました。ありがとうございます。また来ます」
そう言って頭を下げると、若い男は帰って行った。

数日後、先日の彼がやってきた。
もうひとり、顔立ちは彼によく似た、だけど見るからに華奢な体つきの少年とふたりでやってきた。
先にいた客が球を打っているのを見て、少年は「わぁ」と小さく声を上げた。
「すごいね。ここがバッティングセンター?」
「そう。この町にもあるなんてラッキーだよな」
なるほど、引っ越してきたのか。よく似たふたりは兄弟なのだろう。しかも弟は初めてのバッティングセンターか、こちらまで嬉しくなってしまうほど、ふたりの、特に弟の嬉しそうなやり取りだった。
見ると兄がバットを持って、肩には袋を下げている。同じブランドの黒いジャージは少しだけデザインが違っていた。
「最初は70kmぐらいからやってみよう」
「うん」
ふたりでひとつの打席エリアに入る。
「じゃあ、ちょっと見てな」
弟はネットの後ろにあるベンチに座った。
兄は最初、備え付けのバットを選んでいたが、結局持参したバットを手にした。手にはしっかりバッティンググローブをつけている。この間はしていなかったはず。
前回90kmの球を簡単に打ち返していた彼だから、大丈夫だろうと思うがついついふたりの様子を見てしまう。
やはり、兄のバッティングセンスは良さそうだ。前回90kmで打っていたから、70kmは彼にとっては遅いはず。それでもタイミング合わせて気持ち良い音と共に打ち返している。5球目にしてあわやホームランという打球だった。1球打つたびに後ろのベンチに座る弟が首を伸ばして打球の先を追い、小さく拍手をする。
200円で10球を打ち終わると弟に打席を譲る。
弟はすでにグローブをつけていた。
兄はさっさとグローブを外す。なるほど、弟に合わせてのグローブだったんだと思った。
自分のバットを仕舞うと、弟のものと思われるバットを取り出した。真新しいバットだった。そしてベンチに置いていた袋からヘルメットを取り出し弟の頭に乗せる。
初心者らしい弟のために至れり尽くせりといったところだった。
にこにこしていた弟はバッターボックスに立つと、口をキュッと一文字に結んで明らかに力が入っている。
1球目は見送りだった。
「速い」
そう言って兄を振り返る。
「大丈夫」
2球目でバットを出す。しかしボールはやや下で、バットを掠った音がした。
再び兄の方を振り向く。
「いいよ。タイミングは合ってる」
フォームは兄のそれより遠慮がちというか、自信なさげではあったが、初めてバットを振ったわけではなさそうだ。
3球目。ボールにうまく当てたが、いかんせんパワー不足。兄のようにボールは飛ばず、弾き返ったという感じだった。
「うわっ」
手が痺れたようだった。バットの先を足の甲に乗せて、両手を振っている。
「大丈夫か?」
「うん」
頷くと再びバットを構える。
4球目はタイミングも高さもあっていた。
「いい感じじゃないか?」
「ホント!?」
1球ごとに兄は何かしら声をかける。初心者にとってはいいコーチだ。
ただ9球目で弟は明らかに疲れてきたのがわかった。一番飛距離があったのは5、6球目ぐらいだろうか。
「あと1球」
兄の声に無言で頷き、バットを構える。
渾身の一振り。ボールの下に当たったようで、球が上に跳ね上がった。
「わっ」
「大丈夫か?」兄が立ち上がる。
「うん。大丈夫」
弟はバッターボックスを出た。
「手がじんじんしてる」
「そいつは大変だな」
だけどふたりとも楽しそうにしている。
「あっちは速い球を投げてくれるし、ここの隣は変化球も投げてくれる」
兄はいつの間にかここのマシンを把握していた。
「変化球?」
「ランダムでね。直球もある」
弟は外したヘルメットを膝の上に乗せて、言われたマシンのあるボックスを覗くように首を伸ばした。
「見てみる?変化球」
「え?」
「打たなくてもいいからさ」
「うん」
弟はすくっと立ち上がった。
兄が荷物を持って「カーブボックス」に向かう。
その後ろをヘルメットを持って弟が着いていく。
それにしても、先日初めて来たと思っていた兄は、自分の気が付かないうちに何度か来ていたのかもしれない。自分も四六時中ここにいるわけではない。事務所で仕事をする時もあるし、食事に出ることもある。
「落ちる球が多いけど、落ち方が何パターンかあるようなんだよね」
兄は弟を呼ぶとふたりでバッターボックスに立たせた。
「球をよく見るんだ。振れそうだったら振ってみな」
弟の背中に向かって言う。
弟はバットを構えて、ボールを待った。
1球目。
「あれ?」
「さっきのと違ったろ?」
やはりこのふたりは目もいいしセンスがある。今まで野球をしていなかったのがもったいないような気がした。
5球目まで、弟はバッターボックスで来た球を見ては感想を兄に伝えていた。すごく落ちたとか、落ち始める場所がさっきと違ったとか、的確に言う。
「ねぇ、変化球も打てる?」
「どうだろうな?」
兄は弟の持っていたバットを受け取った。
「危ないから外に出てな」
兄は最初の1球は見送った。
機械はランダムだから次に来る球は自分にもわからない。
次に来た球を軽く打ち返す。
うん。やはり、彼はもったいない。今まで何をしていたのだろう?野球もかなり好きなようなのに、今までしてこなかったのは実にもったいない話だ。きちんと体を作っていたらかなり優秀なバッターになっていたのではないか?と思ってしまうバッティングセンスだった。
「すごいすごい」
弟は小さな子どものようにはしゃいでいる。
兄はチラリと弟を見ると再びバットを構えた。
次に来たのはほとんど落差のない高めの球だった。
兄はそれをきれいに打ち返すと、球はホームランゾーンの看板に当たって気持ちのいい音を立てた。
「ホームランだよ。ホームラン」
弟が飛び上がる。
音の割ているスピーカーからファンファーレが流れると、他のボックスの客も音のする方を見る。
ふたりのボックスに向かう。
次の球は弟に気を取られているうちに見送ってしまい、最後の球も兄は見事に打ち返した。
「このバット、いいね」
そう言って兄は弟のバットを拭くとケースにしまった。

「おめでとう」
と声を掛けると、こちらに背中を向けていた弟の肩がビクリと動いた。
「おや、驚かしてすまないね」
弟は兄の後ろに隠れるように移動した。
「ホームランを打った人に記念品が出るんだ」
兄に隠れていた弟が「え?」と小さな声を出した。
「帰りに私のところに寄ってもらいたいんだけど、いいかな?あの両替機の隣にあるカウンターにいるから」
「わかりました。もう終わるところなので、今からでもいいですか?」
と兄が言った。
「もう、おしまいかい?」
「こいつが疲れ切る前に引き上げないと車の中で眠られたら大変ですから」
弟は兄の背中にすっかり隠れてしまった。
「じゃあ、待っているから」
しばらくするとふたりがやってきた。
相変わらず荷物は兄がすべて持っている。
「わざわざ、悪いね」
「いいえ」
兄は愛想よく答える。弟はやはり少し兄に隠れるようにして立っている。
「まずはこれ」
カウンターの上にふたつ折のカードを2枚載せた。
いわゆる会員証だった。来た時にカウンターに寄ってもらえるとスタンプを押す。10個スタンプが貯まるたび、10球無料となる。それが見開きのページで、後ろにはホームランスタンプを押す欄がある。初めてのホームランの後は10本毎に記念品を出している。
スタンプの説明をしているうちに弟がそっと兄の隣に移動したのに気づいたが素知らぬふりで話を続けた。かなりの人見知りなのだろう。
「最初のホームランの記念品は、打った球だよ」
ホームランゾーンに届いた球はこちらに自動回収されるようになっている。
「きれいなボールじゃないんだけどね」
カウンターの上に乗せたボールに顔を近づけたのは弟だった。
「ありがとうございます。いい記念になります」
兄は大人びた口調で言った。
「ほら。初めてのバッティングセンター記念だ」
ボールを弟に渡す。
「いいの?」
「フライキャッチのボールと一緒に置くといいよ」
「うん。そうする。ありがとう」
弟はとても嬉しそうだった。
「キミもホームランボールをゲットできるように頑張って」
そう声を掛けると、一瞬びっくりしたような表情をしたが、すぐ「はい」と言って笑顔になった。

あれから20年近く経った。
街の再開発で、場所を移転したが時代遅れといわれながらも、未だにバッティングセンターはあった。むしろ、あの頃よりも客は多いかもしれない。
あのふたりの兄弟はいまだに通って来てくれる。
友人らも混じる時はあるが来る時は必ずふたりそろってやってくる。
弟は少し背が伸びたが、相変わらず華奢な体格のままだった。マイバット、ヘルメット、グローブ持参でやってくる。
もうすっかりいい大人だがふたりとも最初に来た頃と印象はほとんど変わらない。
弟のホームランは通い始めて2年目でようやく出た。
スタンプカードも何枚か新しく更新された。
マシンも新しくなった。
あのふたりは相変わらずひとつのボックスで交互に打つ。
その姿を見るたびに何ともいえない気持ちになるのは自分が歳をとったからばかりではないはずだ。