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クレヨンおばさんと水色の女

昔、「クレヨンおばさん」と密かに呼んでいたおばさんがいた。
おばさんと言っていたがどちらかというとおばあさんに近い年齢だったけどあえて「おばさん」と呼んでいた。
クレヨンおばさんは、クレヨンの「肌色」をして、クレヨンの「赤」の唇。色だけでなく質感が「クレヨンで塗りました」という感じだった。
濃淡のない肌の色。今はあの色を「うすだいだい」というらしいけれども、まさに橙色の上から白粉を塗りたくったような、乾いた肌の質感がとても異様だった。
アイラインも黒くくっきり入っていて、まるで少し絵を描くのが上手な子どもが描いた絵のような、そんなおばさんだった。
クレヨンおばさんにはそんなに頻繁に会うことはなかった。
でも遠くからでも一目でクレヨンおばさんとわかる色をいつも纏ってた。
服の色もクレヨンで塗ったような感じだった。
濃淡はないけど奇妙な立体感を感じるおばさんに一番よく会うのは、中心街のそのまた中心にあるスクランブル交差点だった。
時にはスクランブルの横断歩道を挟んで、時には隣に並んでおばさんを見る。言葉を交わしたことはないし、交わす必要もない。
おばさんだけがリアリティの薄い、だけど色の濃い不思議な空気を纏っているのを、遠くで、近くで眺めていた。
でもおばさんは、そんな視線に目もくれず、まっすぐ前を見ているだけだった。

不思議な空気といえば、同じ頃「水色の女」と呼ばれている人がいた。
つば広の帽子を被っていて口元しか見えないその人は、若いのか歳をとっているのかもわからない。
背はそんなに高くないけれど、手脚がすらりとしていて、ノースリーブのワンピースがとてもよく似合っていた。
肩甲骨のあたりまでの髪はふわふわしていて、帽子も服もヒールも白っぽい色で統一されていた。
そう水色は「水のような色」のことだった。
やはり一番多く目撃されていたのは、中心街のスクランブル交差点で、そんなに大きくない街の中心は、それでもいろんな人が集まる場所なんだと感心したのを覚えている。
夏にしか見かけない(まぁ、そうだろう。冬にノースリーブのワンピースは無理だ)水色の女は、2年ほど見掛けただろうか?
その人がいる周辺は涼しげに思えた。
すぐ真横で見た、という友人も、女性のそばにいると「水のそばにいる感じがした」と言っていた。

オールシーズン出会すクレヨンおばさんに比べて、レア度は高い水色の女。
一度だけ同時に目撃したことがあった。
夏の日曜日。スクランブル交差点の対角線上に対峙するふたりを見た時、思わず感嘆のため息が漏れた。
自分もまた別の四角の一つに立っていて、ふたりを交互に見ていた。
クレヨン画と水彩画は決して交わることがない。それほど違うものが交差しようとしている。
信号が青になり、みんな一斉に交差点を歩く。
自分はもちろん、そこにいた誰もがふたりの交差を期待しているように思えた。
ふたりより先に交差点の真ん中に差し掛かり、歩みを止めた。
自分の目の前を水色の女が過ぎて行く。
ふんわりと柔らかく、それでいて涼しげな水色の女。その人が作る影までも、水の色のような気がした。
「ハンカチ、落としましたよ」
なんていう、ベタな台詞で呼び止めたい気持ちになる。
すぐさまクレヨンおばさんを探す。
おばさんは僕の背中をかすめてスクランブル交差点を渡って行く。
夏でもクレヨンなんだ…と妙な感心をしてしまう。
アスファルトに映るおばさんの影は真っ黒だったが、不思議と熱を感じなかった。
信号が点滅を始め、慌てて歩道へ向かった。
そして、ふたりを探したが、もうどこにもいなかった。

おそらく、水色の女を見たのはそれが最後だったと思う。
クレヨンおばさんも近くで見たのはそれが最後だったかもしれない。

古い百貨店がなくなり、新しいビルが建った。
スクランブル交差点の信号機もLSDになった。
多くの電柱は地下ケーブルになって、歩道も広くなった。
街の色が変わった。
クレヨンおばさんも、もういない。