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【69母の日】#100のシリーズ

子どもの頃、母の日も父の日も嫌いだった。
どちらのことも知らないから。
夏の日に運動公園に捨てられていた自分は、ずっと養護施設で育った。
養護施設の中では母の日も父の日も話題に出ることはない。
でも、学校に行くと「お母さんの絵を描きましょう」「お父さんの絵を描きましょう」と言われる。
私は誰を描けばいいのだ?
同じ学校に同じ養護施設の先輩も通っている。
「お母さんと言われたら杉下先生。お父さんと言われたら椛本先生を描いている」
そう話していた。
でもそれも低学年のうちで、学校でも母の日や父の日の話題が出ることはなかった。
私の苗字は、拾われた公園の名前で、名前の夏海は夏に拾われたから夏子になりそうなところを当時の市長が自分の名前から海の字をつけて夏海になったのだと聞く。
その市長は自分が3歳の時に亡くなった。
私が拾われた日が私の誕生日となっている。拾われた時、まだ臍の緒がついていて、生まれて間も無くに捨てられたのだと判断されたと聞く。
だから私は占いを信じない。
生年月日も名前もホンモノじゃないような気がして、それらを使って占っても私とは違うと思っていた。
杉下先生も椛本先生も「お母さん」「お父さん」と呼ぶには少し歳を取っていた。私が高校卒業をして施設を出る時、ふたりとも定年を迎えた。施設に行っても世話になったふたりがいないせいか、私は施設に顔を出すことがなかった。
高卒枠での公務員採用試験を受けて、市役所に勤めた。
市役所勤めが決まった時杉下先生も椛本先生も、他の先生方もとても喜んでくれた。
20歳になって、大学の通信課程で学び始めた。
万が一市役所を辞めて、次の仕事に就く際、大卒であった方がいいと思ったからだ。
だから、仕事以外の時間は勉強に当てた。
幸いなことに市役所はほとんど定時で帰ることができる。
部屋に帰ってもひとりだ。
施設にいた頃よりずっと勉強しやすい環境だった。
仕事が終わるとにスーパーに寄って、食材を買って家に帰る。
4月の終わり頃、いつものようにスーパーに行くと赤いカーネーションの鉢植えが並び「母の日」の文字が飛び込んできた。
今までも毎年見てきたはずなのに、ひどく衝撃を受けた。
しばし、その鉢植えを見つめていたが、結局そのままスーパーを出た。
そしてそのまま家に帰り、非常食として買い置きしていたカップ麺を食べた。
シャワーを浴び、机に向かう。
だけど勉強する気になれなかった。
「母の日」が嫌いだった子どもの頃を思い出した。
そして、私は赤色が苦手なのは、赤いカーネーションのせいだということに気がついた。
私を産んで、私を捨てた母は今でも生きているのだろうか?
今まで母のことを考えたことがなかった。
考えないようにしていた。
考えようにも、少しも「母」なんてものがわからなかった。
仕事用のスケジュール帳を机の上に広げた。
母の日は5月の第二日曜日だとあった。
「3週間近くある」
私はうんざりとした。
それまでずっと、スーパーに行くたびにあのカーネーションを見なければならない。商業施設はどこでも母の日の赤色に染まるのだろう。
私は大きく溜め息をついた。
そして、青いサインペンを取り出して5月に第二日曜日にバツをつけた。


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