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佗顔なる我が涙かな

泣きたいけど泣けない。
ずっとモヤモヤをためている。
溜め息が増えた。
でも誰も何も言わない。言ってくれない。
気がつかないのか?気がつかないフリをしているのか?
でも、「どうした?」お声をかけられても、今の自分はどう答えるだろう?
「実は…」なのか「何でもないよ」なのか。

「疲れてる?」
声を掛けてきたのは研究室の森川教授だった。
リモートのおかげで実験が滞っていた。シュミレーションデータばかりじゃ何も結果が出ていないも一緒。だけど、教授は今日も溌剌としている。
「体、動かしている?」
「えぇ、まぁ」
「そろそろあったかくなってきたからウォーキングとかどう?」
体を動かしていないのがバレバレだった。
「教授は何かしているんですか?」
「ん?」
「体動かすの」
「ヨガやってる」
「え?」
予想外の答えだった。
森川教授はいつも白衣を着ているが、その下のワイシャツを見るとなかなか胸板が厚そうだった。研究室付きのもうひとりの教授は、小柄というか華奢な体をしているが動きがしなやかだ。そちらがヨガをしているというのならまだ首を縦に振れる。
「宵月教授のようにバッティングセンター通いというのもいいんじゃない?ストレス発散も兼ねて」
これまた意外なことを聞いた。あの華奢な体がバットを振っているというだけでびっくりだ。
「ヨガはおうちでなさっているんですか?」
「うん。妻と」
思いっきりのいい笑顔。その答えもまた意外だった。

リモートでの打ち合わせ。学校自体は春休みの真っ最中だった。それなのに学校の研究室にいた森川教授は先に落ちた。これから実験機械の計器製作を依頼していた企業の技術者が設置に来るという。わくわく感が打ち合わせ中も滲み出ていた。
画面越しの宵月教授は以前より一層華奢に見えた。なんでも少し前に体調を崩して入院していたという。背もたれ用の大きなクッションに埋もれる感じで映っている。
「ねぇ?大丈夫?元気ないね?」
その教授に言われてしまった。
「え?」
「なんか悲しいことあった?泣けてないとかない?」
ここまでピンポイントをつかれるとは思わなかった。
しかも、宵月教授は普段からそんなに個人的にコミュニケーションをとってくる人ではない。研究室の別室にこもってプログラミング作業をしている。みんなと一緒の時も「壁の花」の言葉がぴったりだった。大学の講義も丁寧だし見た目からも人気は高いが、個人的に交流を持てるような気安さはなかった。
「何なんでしょうね?自分でもよくわからないんですがね」
とつい本音をこぼした。
「何を見ても泣けちゃう?それとも泣けない?」
相手が「ふうん」で終わらなかったことに驚いた。
「嘆けとて月夜はものを想はする 佗顔なる我が涙かな」
それは百人一首だったような気がする。古文はあまり得意ではなかった。
「恋の歌なんだけどね。その恋は泣けちゃうんだって。月を見ても泣けちゃう。まるで月が泣けと言っているかのように。そしてそんな月のせいにでもしたくなる止まらない涙にも本人は恨めしさを感じちゃうんだって。自分の気持ちなんだけどね。自分じゃどうしようもなくて、誰かのせいにしたくなっちゃう時あるよね」
「教授もそういうことあるんですか?」
「泣けちゃうような恋はないけど」と前置きしつつ「割とあるよ」と言って自嘲気味に笑った。
「教授はそういう時はどうします?」
「うーん」
自分よりも10歳歳上の教授は可愛く小首を傾げる。
「寝ちゃう」
「え?」
内緒だよ、というように、教授は声をひそめてもう一度言う。
「水族館で寝ちゃう」
「え?」
教授はクスクスと笑い出した。
「三日月ビルヂングに水族館があるの知ってる?」
「えぇ。行ったことはないですが」
気になってはいた。この町の中心部にある水族館。噂では展示物は多くはないがゆったりと休める場所だという。
「金魚の入った丸い水槽があるんだけど、それを眺めていると眠くなるんだよね。揺れる金魚のせいか。それとも水とモーターの音のせいか」
水音にはヒーリング効果があるとかないとか聞く。
「そこで眠ると嫌な夢も見ないで眠れる。そうすると少しスッキリするんだ。眠るって大事だね」
教授は普段はあまり眠れないのだろうか?と思った。
「たまにね、水槽の前でそっと泣いている人もいる。でもね、誰も何も言わない。みんなそれぞれの水槽の前で現実から少しだけ遠ざかっているからね」
教授は丁寧に水族館の入館システムも説明してくれた。水族館のちょうど裏手にある漢方薬局で年間パスポートを購入するのだそうだ。なんだか秘密基地めいていている。
「今度、行ってみます」
「なんだか無理に押し売りしたみたい」
モニターから教授の姿が消えた後、バッティングセンターの話も聞けばよかったと思った。

翌日、早速、水族館に向かった。
用紙に名前と生年月日と連絡先を記入した。
「カードのデザインはどれがいいですか?」
薬剤師とついたプレートの下には「流」とあった。レジの奥にある管理責任者のプレートに「流 星嗣」とある。歳は宵月教授よりも少し上だろうか?もっとも、教授は年齢を聞いていないと学生と間違えてしまいそうだが。
「金魚、ですね。少しお待ちください」
待っている間に説明書を読む。年間パスポートの期限の1ヶ月前に連絡先にその旨の連絡が入る。パスポートの更新料は500円。1回目に比べて1/3の料金だった。
水族館は年中無休だが何かしらのメンテナンスが入ると臨時休業になる。その時も連絡先にお知らせが入る。比較的シンプルなシステムだった。
朝は9時から夜は7時まで。
白いカードを入り口の機械に入れるとゲートが開く。
大きな水槽には色とりどりに熱帯魚が揺れている。
それを眺めているうちに館内の暗さに慣れてきた。
見ると通路にはベンチだけではなくソファやデザインチェアがいくつか置かれている。
熱帯魚の水槽の向こうにはクラゲの入った水槽があった。
こちらも大きな水槽で、中で区切られているらしくクラゲは種類ごとにそれぞれのエリアの中をぷかぷかと漂っている。
水を循環させているエリアに近づいたクラゲが水に押されて流されている。水の勢いを受けない場所からぷかぷかとまた水に押されてしまう場所に漂っていく。
ミズクラゲと書かれた水槽の前に自分の母親よりも少し若いくらいの女の人が立っていた。自分はその人の後ろを通り過ぎた。
ぽっかり空いた空間は今までのエリアより少し暗かった。でもその真ん中の柱の中に球形の水槽があった。そしてキラキラと金魚が揺れている。
水槽の周りにはいくつかの椅子があった。
その中に大きめのクッションが置かれた、大きめのロッキングチェアがあった。
なんとなく、その椅子は宵月教授の椅子のように思えた。
ロッキングチェアの近くに置かれたシェルチェアに座って金魚を眺めた。
水槽の入っている柱の中に組み込まれているであろう照明で、金魚はキラキラ光る。金魚とはよく言ったものだ。赤や白の鱗がキラキラと輝く様はまさに金色の魚だ。
昔、金魚掬いで掬ってきた金魚を飼っていた。
あれは和金と呼ばれるタイプだったと思う。
父親が熱心で、餌にも凝った。
金魚は大きくなり、鱗の光る様子もとても美しかった。
父親が水槽を洗うのをよく手伝った。
懐かしい記憶。
あの金魚は最後どうなっただろう?
高校を卒業する頃はまだ家にいたような気がする。
大学に入るために家を出て、それからまだ7年しか経っていない。家に一度も帰っていないわけでもないのに、家のことがちっともわからない自分に気づいた。
「家に帰ろうかな?」
研究室はもう少しリモートか続く。
装置も製作もあるが自分が携わるまでもう少し時間がかかりそうだった。
研究にかまけてあまり人に会っていなかったところに加えて、この状態である。
単純に自分は人恋しかっただけかもしれない。
最後の水槽にはオウムガイが浮かんでいた。
それまでの水槽に比べたら小さな水槽だった。
呑気そうに浮かんでいる様は、クラゲのそれとはまた別で、オウムガイは意思を持ってそこに浮かんでいるような気がした。
ここしばらく何かをする時に「仕方ないな」と言っていたような気がする。
今の状況ではどうしようもない、仕方ない…と何につけ諦めていたような気がする。諦めているのは自分なのに、誰かのせいにしようとしていた。
「やっぱり、一度家に帰ろう」
水族館を出てすぐに実家の母に電話を入れた。
母はすぐに電話に出た。建物脇のベンチに座った。
「どうしたの?久しぶり。元気してた?」
聞き慣れた、だけど久しぶりに聞く母の声だった。
「元気だよ。そっちは?」
母が自分の様子、父の様子を事細かに伝えてくる。「うん、うん」と頷いているだけだった。
涙が出てきた。
悲しいわけでもない。特別に嬉しいわけでもない。それなのに涙が出てきた。周りに人がいなくてホッとした。
母に気付かれないように洟をすすり、涙を拭いた。
「どうしたの?風邪?花粉症じゃなかったよね?」
「なんでもないよ。たださ、週末、家に帰ろうかなと思っているんだけどいいかな?」
「いいかな?じゃなくていつでも帰ってきなさいよ。どうせ今はリモートなんちゃらなんでしょ?どこにいてもいいなら家にいなさいよ」
「リモートなんちゃら」という母らしい一言がおかしくて笑った。
「じゃあ、週末、家に行くから。父さんにも伝えといて」
そう言って電話を切った。
鼻をかんで、涙を拭いて立ち上がった。
宵月教授のように眠れたわけではないけれども、自分の中のもやもやの正体を見つけることができた。
「年間パスポートの料金以上の効果ありですよ、教授」と呟いた。
きっと教授は「それは何より」と笑ってくれそうな気がした。

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に続く