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指と声と

「トワべさん。青藍は?」
「お庭を散歩していらっしゃいます」
「雨だよ」
「雨だからでございます」
トワべさんの指差す方を見ると、黄色いレインコートを着て黄色いレインシューズを履いている小さな青藍が少し俯いくように、だけど黄色いレインシューズが何かを蹴っているかのようにリズミカルに歩いている。
「風邪をひいちゃうよ」
「えぇ、今、お連れします」
穏やかにそう言うと、背の高いトワべさんが黒い大きな傘をさしてウッドデッキから庭に出る。
トワべさんに気が付いた青藍は最初はギクリと立ち止まって動かなくなった。トワべさんが何か言ったのか、慌てて駆け寄ってきた。
トワべさんに手を引かれて戻ってきた青藍はにこにことこっちを見ている。
黄色いレインコートを脱いだ青藍は、黒い半ズボンに白い半袖のシャツ姿だった。トワべさんがレインコートの代わりというようにタオル地のパーカーを羽織らせる。パーカーは薄いグレイで、フードにはネコ耳がついてた。
「雨の中歩いたら、風邪ひいちゃうよ」
抱きしめながら言う。学校から急いで帰ってきたのに、青藍に熱を出されたら急いだ意味がなくなる。
「ほんの5分程度でございますよ」トワべさんが言う。
「お昼寝で怖い夢を見られたようで、気分転換でございます」
だからといって雨の中を歩くのはどうだろう?
「青藍坊ちゃんは雨が好きなご様子で」
確かに青藍を見ると機嫌をよさそうにしていた。
「青藍、一緒におやつを食べよう。そしてお魚の図鑑を一緒に見よう」
そう言うと青藍は嬉しそうに頷いた。
ザーッと雨音が強くなった。
青藍はびっくりしたかのように慌てて窓の外を見た。
「ほら、お部屋に戻ってよろしかったでしょう?」
トワべさんが優しくそう言うと、青藍は頷き僕にぺったりとしがみついた。

その指が冷たかったのを蒼月は何故か忘れられない。

子どもなのに体温が低いのを怪訝に思った十和部がホームドクターである天明に相談したのはそれから間もなくだった。天明は所属する病院で青藍を検査すると、青藍は普通よりも心臓が小さいということが判明した。
「海部内は気がつかなかったのかな?まぁ、特に症状が出ていなければ問題はない」
「左様でございますか」
「あとは成長の過程を観察して要所要所で検査していくしかない。風邪をひかせないようしないとな」
「承知しました。旦那様にもその旨伝えておきます」
天明は十和部のその言葉を聞いてかねてより思っていた疑問を口にした。
「三日月氏は青藍くんをどう思っているのか?」
「と、申しますと?」
「拾った犬猫程度に思っているのなら、いっそ養子に出すのがいいのではないか?」
「とんでもありません。蒼月坊ちゃん同様、とても大事に思っておられます。ただ、青藍坊ちゃんは言葉を話されません。言葉を理解していてもほとんど声を出すこともございません。それゆえに一子様にお預けになられていたのですが、一子様が亡くなられて旦那様が引き取るにしても日本に留まることは難しいのが現状。どうするのが青藍坊ちゃんに一番いいことなのか…」
「そういうことなら自分も協力できるが…あの子には多分何にもないのだろうなと思ってね。周りが勝手にあの子につけている評価?価値?それも否定的なものばかり。俺は医者だけど、ここで初めて生まれてこなかった方が幸せだったのかもしれないという命を見てるような気がする」
「先生…」
「聞かなかったことにしてくれませんかね」
「承知しました」
十和部は頭を下げた。
天明はおそらく十和部も同じ思いでいたのだろうと思った。

「ダンゴウオ、かわいいねぇ」
蒼月の言葉に青藍がこくこくと頷く。
蒼月のベッドに並んで腹這いになって図鑑を見ている。
青藍と一緒に暮らすようになって3ヶ月が過ぎた。
ここに来た時からずっと、いやその前から、ぬいぐるみを抱きしめ、所在なさげにベッドの隅やソファの陰にいるか、窓際で外をぼんやり見ているかだった。今もそのぬいぐるみはふたりと一緒にベッドの上にいる。ノアという名前がついているらしい。青藍の荷物を届けにきたアマナイという人が教えてくれた。
蒼月は春から小学校に通い出した。
学校が終わると急いで帰ってくる。
最初は蒼月が声を掛けても、びくりと肩を揺らすだけでぬいぐるみを抱きしめたままだった青藍も、少しずつ変わってきた。先週あたりから少し離れたところで名を呼んでもきちんと蒼月の方を向くようになり、駆け寄って来てくれる。そして、声は出なくてもにこにこと笑顔になったり頷いたりでリアクションを返してくれる。ようやくこうして一緒に本を読んだり、アニメを見たりできるようになった。
でも声はまだ聞くことはない。
すっかり喋れなくなってしまったのだろうか?蒼月は気になった。
天明は根気強く青藍に話しかけた。蒼月も一緒に話した。
蒼月はもっと小さい頃の青藍はとてもよく笑う子だったと思い出す。こんな弟がほしいといつも思っていたのにようやく一緒にいれるようになった青藍は別人のようだった。
多分、原因はあの時の事故だろうと、蒼月は思っていた。
大人たちは事故というが本当に事故だったのだろうか?と子どもの蒼月でも疑問に思うような「事故」だった。
蒼月の祖母の葬儀に集まった人々の前で、蒼月の叔母、青藍の母が落ちて死んだ。
2階のバルコニーから後ろ向きに飛び降りたのを蒼月は直接は見なかった。悲鳴が聞こえ、蒼月が振り向くと小さな青藍がバルコニーの柵の間から懸命に手を伸ばしている。誰も青藍に近付くものはいない。青藍は「ママ」と呼んでいるようでもあり、ただ泣いているようにも思えた。
蒼月は駆け寄り「危ないからおいで」と柵から遠ざけようとした。しかし、子どもの力ではどうすることも出来ない。その時蒼月は仰向けに地面に倒れている青藍の母親と、そこに駆け寄る天明らを見た。
蒼月は急に怖くなった。
「おまえまでボクを置いていくな。ボクをひとりにするな」
蒼月は小さな青藍に縋った。
十和部が駆け寄り青藍を抱き上げた。
青藍は十和部に抱かれたまま泣いていた。
それが、蒼月が聞いた青藍の最後の声だった。
あの時、どうして誰も青藍を助けてようとしなかったのだろう?蒼月はずっと不思議だった。あんなに大人がいたのに。
その理由がなんとなくわかったには、大伯母の葬儀の後だった。
祖母や母親が続けて亡くなった後、青藍は祖母の姉である一子と一緒に暮らしていた。青藍はそこに母親も一緒にいると思っているという話を聞いて蒼月はとても悲しくなった。
そして、その大伯母も3ヶ月前に亡くなった。大伯母は結婚しておらず、もちろん子どももいない。葬儀は義弟である蒼月の祖父が仕切った。
その時に集まった大人たちが口々に青藍のことを「要らない子」「厄介者」「生まなければよかったのに」と言った。いくら青藍が小さくてもその声が届いたら何を言っているかわかるだろうと蒼月は思った。蒼月は青藍の手を引いてその場を去った。

雨がまた強くなったようだった。
窓を雨が叩く音がした。
青藍はベッドを降りると窓の方に歩いた。ぬいぐるみは右手に引きずられている。
窓は高いところにあって青藍の身長だと外は見えない。
青藍は窓を見上げた。雨粒の当たる窓ガラスをじっと見ていた。
蒼月は後ろから窓ガラスに映る青藍の顔を見た。
少し怯えているような、虚ろな何も感じていないかのような表情だった。誰かが雨と共にそこに来るのを待っているかのようでもあった。
部屋の隅にいる時もこんな表情をしていた。
「青藍」
そっと呼ぶと振り向いた。
蒼月はホッと息を吐いた。
「青藍、おいで。続きを見よう」
頷く青藍の左手を握る。その手はまだ少し冷たかった。