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金魚の眠り

薄らぼんやりとした日だった。
薄曇りの日は全てをうっすらとした不安が覆うような気がする。
蒼月はノートパソコンを抱えて、ビルの一階にある漢方薬局に出向いた。
アンティーク調の扉には「支度中」とある。
薬局を閉めると「本日終了」の札が下がり、朝、主人が来ると「支度中」の札に変わる。営業時は何の札も下りない。
蒼月は無言で扉を開けるとまっすぐ店の奥に向かった。
「おはよう」
最初に声を掛けたのは薬局の主人の流だった。
「悪いね。早くに来てもらって」
蒼月は挨拶の代わりにそう言った。
「いやいや、こっちこそ。もっと早くに気がつけばよかったんだけど、昨日カードの更新した時におかしいと気が付いたから、急がせちゃったね」
何故か、ビルの裏側にある水族館の年間パスポートの取り扱いを漢方専門の薬局であるここで行っているのだが、昨日、専用に使っていたPCが壊れた。
「予備はいつでも準備してたんだけど、昨夜はキミがいるうちにはどうしても来られなくてね」
「知ってる。探偵たち捕物騒ぎだったんだって?」
捕物などという古風な言葉を選ぶ友人に蒼月は苦笑した。
「身元引受人になってもらっている2階のセンセに探偵と一緒に怒られたよ」
「彼女の匙を投げられたらいつでも言ってくれ。僕が身元引受人になるよ」
「そうならないことを祈っていてくれ。あいつらの身元引受人してたら仕事にならない…とセンセが言ってた」
そんなことを話しているうちに、蒼月はさっさとノートパソコンを入れ替えた。
「それ、どうするの?」
「あぁ、とりあえず検証してみるけど、HDDが逝っちゃってるって感じかな?まぁ、随分長く使ったからね」
蒼月は流にパソコンを使ってみるよう促した。
「パスワードは変わっていないから」
試しにパスポートの利用履歴を見る画面を出した。
「快適だね」
「そりゃよかった」
水族館の開館の午前9時に間に合った。
漢方薬局の開店時間は9時半。流は普段だったら今頃薬局に降りてくる。流も蒼月同様このビルに住んでいる。3階の探偵事務所の裏側いうべきか?この筒状になっている三日月ビルヂングの東側、水族館の上に住んでいる。4階にはオーナーである三日月蒼月が住んでいる。
5階も居住スペースなのだが、現在は誰も住んでいない。
「あれ?青藍くん、来てるようだよ」
パソコン画面を覗いていた流が言った。
宵月青藍は三日月蒼月の2歳下の従弟だった。物理学者で大学でも教えているが、蒼月同様、外国語に精通しているので通訳としての仕事もしていた。本来5階は彼のための部屋であるが、大学生の頃から住んでいる、彼らの祖父・三日月玄円の別宅に暮らしている。
「ここは人の出入りが多いから青藍には向かない」と言って蒼月も無理にビルへ越させようとはしなかった。というのも、その別宅はビルの東側にある、中心街には場違い的な森の中にある。
ビルの地下駐車場からその別宅の車庫に通じる地下道がある話を、流は以前聞いたことがある。
「駐車場と車庫をつないでいる通路なのに、車が通る幅がないなんてナンセンスというかなんというか」
その通路の存在を知るのは、玄円と蒼月のふたりだけで、それを何故作ったのかを玄円に訊いた答えは「面白いだろう?」だったという。
流星嗣(ナガレセイジ)の祖父もまた三日月玄円と親しくしていた。このビルができた時からこの漢方薬局が入っているのは祖父同士の付き合いからだった。
「ここしばらく来ていなかったようだね。忙しくしていたのかな?」
「キミはそうやっていつも確認しているのか?」
蒼月が片眉を上げる。
「違うよ。今見たんだよ。だって青藍くんが登録のトップなんだもん」
「そりゃそうだ。水族館は青藍のために作ったんだから」
知っていることとはいえ、こうして聞くたびに流は驚かずにいられない。

蒼月は一度部屋に戻り、ノートパソコンを書斎の机の上に置いた。
そして、柔らかいブランケットをクローゼットから取り出すと、それを持って再び部屋を出た。
地下駐車場に通じるエレベーターは関係者専用で地下から3階まで通じている。そしてもうひとつ、蒼月の部屋から直接地下駐車場に通じるエレベーターがある。その存在は蒼月しか知らない。正しくは蒼月とその身内だけだが、彼らはほとんどここを訪れない。
そのエレベーターで蒼月は地下駐車場へ行く。そして、水族館のバックヤードに繋がる扉を開けて中に入る。
そこはすぐさま機械室に繋がる。小さい水族館とはいえ、大きな水槽の水を循環させるためには大掛かりな設備工事を必要とした。
蒼月が祖父よりこの建物を譲り受けてすぐから着工をして、水族館を完成させるまで2年以上かけた。
全ては当時大学院生だった青藍のためだった。
学ぶこと、研究することで、少しでも「世界」と自分を繋ぎ止めようとしている青藍が、大学入学当時、祖父の家のアクアリウムの前で見せる安らいだ表情を思い出す。「好きならば自分の家にも置くといい」という祖父の言葉に「世話ができないから」と首を振った。
「お祖父様のところでこうして見ることできるし」
「残念だが、来月から北欧住まいになる」
「ここのお魚はどうするの?」
祖父のアクアリウムは魚よりも水生植物が主で、水槽毎とある植物園への移動が決まっていた。
祖父の別宅にも水槽を置ける場所ぐらいあるが、その世話だけで他人が出入りするのをよく思わないし、「死んじゃったら嫌だから」と青藍は頑なにどんな生き物も買おうとしない。
つまり、この水族館は青藍の代わりに魚を飼うための施設だった。
「金持ちの道楽と笑ってくれ」
水族館の工事をしている間も漢方薬局は営業を続けていた。
工事の設計書を広げながら蒼月がそう言った時の顔が流には印象的だった。

蒼月が思った通り、青藍は金魚の水槽の前のシェル型のロッキングチェアで眠っていた。
靴を揃えて脱いで、膝を抱えるようにして座って眠っている。
彼が昼寝をする時はいつもこの姿だった。
子どもの頃からの変わらぬ姿に、蒼月は愛しさを感じる反面、いまだに彼の中にある大きな穴は塞がっていないのかと悲しくもなる。
大学卒業時に「友人と一緒に住むから、人を寄越さなくてもいい」と祖父に言ってきたと、祖父から連絡を受けた。
「身元はすでに調べてある。特に問題もないから青藍の好きにさせておくが、おまえはいつも通りに青藍のことを見ていてくれ」
同居するという大学の友人の調査資料とともに玄円が言ってきた時は、大概だなと思った。祖父は青藍に甘過ぎる。が、自分も同じだと蒼月は苦笑するしかなかった。
友人は料理が得意なのだと青藍は言う。
「そいつはよかったな。どうも俺たちには料理の才能だけはない」
蒼月が言うと青藍は可笑しそうに笑った。
「蒼月にも苦手なことあるんだ。よかったぁ」
「料理は、正確さとセンスが必要だと思う。どうやら自分にはそのセンスがないようだ」
レシピを見ながら、きちんと料理を作ることはできる。でも、何か物足りない感じる。自分以外の者が作った料理の方が美味しく感じるのは何故なのか?蒼月は疑問を感じていた。
学生の頃はそれこそ毎日のように蒼月のところに来ていたが、仕事をするようになると回数も減る。その代わり、毎晩何かしらの連絡が夜入る。研究が詰まったり、仕事で躓くと言葉が減る。友人の話も少なくなる。
ふたりの間で喧嘩をすることはないようだが、自分がうまくいっていないと相手にも一緒にいることが負担でしかないと思ってしまうらしく、何度か「同居の解消を考えているが、自分から言い出したのにそれは身勝手だろうか?」と相談を受けた。
「そうだな。いきなりの解消は身勝手だ」と返す。
本当は身勝手とかではなく、こういう不安定な時こそ、誰かに青藍のそばにいてほしいだけだった。

今も、青藍は揺れている。
蒼月は感じていた。

青藍は揺れながら落ちていく。

視線は暗い水底を向き、光はもう随分と弱くなっている。

いっそ、静かな水底にいた方が彼にとって幸せなのかもしれない。
蒼月はそう思うことがあった。
「否」
友人との同居で、それまで青藍が知らなかった世界を見聞きしていることで、少しずつ彼は変わってきている。
決して自分が「無用のもの」ではないと、誰かに常に恋われていると気がついてほしい。
眠っている顔は幼い頃とちっとも変わらない。
自分と青藍はひどく複雑でとても近い関係だが、その顔が自分によく似ていると言われるのが蒼月は嬉しかった。
そっとブランケットを掛けてやる。
無意識にもぞもぞとブランケットを引き上げるのを見てくすりと笑った。
「良い夢を」
蒼月はそっと青藍の頭を撫でた。片手にすっぽりと収まる小さな頭の中にある、悪い記憶を吸い取りたいと子どもの頃からいつも眠る彼の頭をこうして撫でた。寝顔を見る。安らいだ表情にホッとする。
30分経っても目を覚さないようなら起こしに来よう。
「多分その前に青藍から連絡を受けるだろうな」
金魚が水槽の中で揺れる。
その目には青藍も自分も映っていないのだろう。蒼月はそう思った。同じ場所にいながら世界が違う。
「青藍をそっち側には行かせない」
蒼月はそのままその場を立ち去った。

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