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パンを焼く日

休日、ショウの家に来て、片付け物を済ませると、キリカは必ずパンを焼く。
材料の粉はいつでもショウの家に置いている。
フライパンで焼くちぎりパンは全工程2時間。途中の発酵時間はキッチンで本を読んでいる。
職場の上司が家で焼いている話を聞いて、自分もやり始めたら、まずは焼けたパンにショウがハマった。そしてキリカもその作業にハマった。パンを焼くのはもう1年以上続いている。
慣れたとしても、分量も時間もきちんと「はかる」ことが必要で、そして割と没頭できる。
キッチンで小さく音楽を流して作業する。発酵時間に読む本はエッセイと決めている。

でも今日は思うように本を読み進めることができなかった。

ショウとキリカが知り合って7年。キリカがショウの家に通うようになって5年。その5年を交際と呼ぶ者もいれば、「あんたたち本当に付き合っているの?」と言う者もいる。
キリカもよくわからない。
今、多分、ショウに好きな女の子ができればショックに思うだろう。そう思うと自分はショウのことを好きだと思う。
「どのくらい好き?」なんて子どもじみたことを友人が言う。「友達?恋人未満?結婚を前提に?」
キリカにはわからなかった。
ショウとセックスをしたいとかの感情はわかない。決して相手に魅力を感じていないわけではない。キスすらもしていない。でも、それに対する不満はない。でも、「そばに居たい」
果たして相手は自分のことをどう思っているのだろう。
自分がこうして家に来るのも嫌ではないようだし、先週の誕生日にはプレゼントとして、財布を作ってくれた。そして、自分の焼くパンを誰よりも美味しそうに食べてくれる。
ショウは革作家で、オリジナルの鞄を主に作っている。
キリカがイベント会社に勤めて間もなくにあった展示会に、ショウが出展する立場として会ったのがきっかけでだった。展示会は全国3ヵ所で行われ、1年以上のイベントだった。同い年ということもあって、話をすることも多く、そのうち仕事以外で会うようになった。
20代のうちはたとえ何年キャリアがあろうとも「ニューフェイス」と呼ばれるがそろそろ30代が見えてきた。ショウも有名ショップとの提携や、他のブランドやメディアとのコラボのためのデザインなどの話も出てきている。
「稼げる時に稼いで貯めて、ゆっくり自分の好きなものを作る生活がしたい」
少し前からショウはそう言って、積極的に商業的な話に参加するようになった。
キリカは少し羨ましかった。漠然とでも未来が見えているんだと。その未来に自分はいるのか少しだけ不安になった。
お昼過ぎ、ショウは焼き上がったパンを熱いうちから千切って食べる。
朝のうちに落としたコーヒーをポットから注ぐと、ふたりで並んで座って食べる。ショウの友人が作ったダイニングテーブルは会議用の折りたたみデスクをリメイクしたものだった。

いつに間にか静かに雨が降っていた。

「今日はあんぱん」キリカが言う。
キリカの職場の近くにある和菓子屋さんの粒あん。上司のおすすめだった。
「美味しい」
「よかった」
本当によかった。とキリカは思った。
「あのさ」
ショウがキリカを見て言う。
「キリカってアパート借りているんだよね」
「うん」
ショウはキリカの部屋を訪ねたことはない。キリカは3年前から今の部屋に住んでいる。その前に住んでいたのは大学生の頃から住んでいた。1Kだったが安かったし、近くに商店街もあって便利だった。でも、地域の再開発で商店街もアパートもなくなることになり、やむなく引っ越しをした。今は1DK。コンビニも近いし、ショウの家まで歩いて10分。
ショウの家は、ショウの祖父の住んでいる家だった。縁側もあり庭もある。L字型の平屋で、今いる居間とダイニングキッチン。ショウが作業場に使っている部屋と寝室にしている部屋。その他に2つ部屋があった。
「ここに住むのはどうかな?」
キリカは驚いた。
何も言えずにショウの顔をじっと見ていた。
ショウはパンをまた少し千切って口に入れる。ゆっくり咀嚼して飲み込む。そして、コーヒーをゴクリと音を立てて飲んだ。
そして「ふぅ」と息を吐いた。
「誰かと、僕と一緒に暮らすのって無理っぽい?」
キリカは首を振った。
「キリカがよければ一緒に暮らしたい」
好きだとか、付き合おうとか、そういう言葉は今までどちらからも出ることはなかった。
「パンを焼くのは、僕の邪魔にならないようにって気を使ってくれているんだよね」
キリカは、昼頃に作業場から出てくるショウに合わせて、朝から来て片付けをしてパンを焼く。パンを食べて、片付けて、ふたりで買い物に出て、夕飯を作って食べて片付けて帰る。それがキリカの休日。帰りに次に来る日を言う。「明日」だったり、「また来週」だったり。
ショウは気づいていたんだ。近くにいるだけでいいと思っていたことを。好きだと思っていることを。
気がつくとキリカは泣いていた。
ショウは少し狼狽える。
「ごめん」
キリカはまた首を振る。
「来ていいの?」
「来てほしい」
「ありがとう」
ショウは初めてキリカの肩を抱いた。