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腕ください幽霊

小学2年の時だった。風邪をひいて3日学校を休んで、ようやく登校した朝。教室に入るや否や同級生に「ねぇ、『うでくださいゆうれい』知ってる?」と言われた。
「知らない」
「よかったぁ」
何がよいのだ?
「あのね、夜中の1時から2時の間に、家の玄関の戸をトントンと叩く音がするの。それで、玄関の戸を開けると髪の長い女の人が立っているの」
同級生は張り切って話を続ける。
「女の人は、『腕ください、腕ください』って言うの」
一所懸命話を聞かせてくれる同級生とは席も遠いし、去年から同じクラスだったけれどもあんまり話したことはなかった。
「腕を取られたくなかったら」
腕を取られたくないのは当たり前ではないか?
「『ケガをしているからダメです』って言うの。そうすると女の人が『誰から聞きましたか?』って言うから『カシマさんから聞きました』って言うと、その女の人は消えるの」
怖いような怖くないような。そもそも自分は午後8時に寝ないと母に怒られる。真夜中の1時なんてよくわからない時間だ…と思っていたら、同級生はいきなり早口でこう言った。
「この話を一週間のうちにこの話を知らない3人の人に言わないと本当に出るんだって」
え?
「やったぁ、3人に話した」
同級生はにこやかに言い放った。
「ずるい!私もミカちゃんが学校に来たら言おうと思ってたのに」
「あたしも。だってみんなもう知ってるんだもん」
風邪をぶり返したか、あるいはそれ以上に気分が悪くなった。
結局その日は頭の中は「腕ください幽霊」でいっぱいだった。
朝以外も「ねぇ、腕ください幽霊知ってる?」と何人に声をかけられただろう。
「うん。知ってる」とその度に答える。
「ウソ。だってミカちゃん休んでたでしょ」
「朝、ナツミちゃんに聞いた」
「えー。ナツミちゃんずるい」
このやり取りを繰り返していくうちに、どんどん同級生は友だちとは違うと思っていった。
朝のやり取りやみんなの様子から、本当にクラスのみんなは「腕ください幽霊」を知っているようだった。

家に帰っても憂鬱だった。
休んでいた3日間の間で、自分だけが取り残されていた事実に愕然とした。
3人って誰に話せばいいんだ?
そればかりを考えていた。

夕方、父が帰ってきた。
家の中にいるのは、父と母と自分と弟。
自分以外の人が3人いるではないか?
3人を前に自分はおもむろに口を開いた。
「ねぇねぇ、腕ください幽霊って知ってる?」
父も母も知らないと言う。3歳下の弟は「何を言っているの?」という顔でこちらを見てる。
自分は学校で聞いた話を思い出し思い出し話した。
「一週間の内に3人の人に言わないと本当に出るんだって」
と言い切ってホッとした。
これで幽霊に会うことはない。
「ほぉ…」と父親。母親は「バカらしい」と言いながら台所へ向かう。弟は話の途中からミニカーで遊んでいた。それでも自分は3人の人に話すというミッションはクリアした。そう思っていた。

それから一週間が過ぎた。
もう誰も「腕ください幽霊」の話をすることはなかった。
自分はいつもの通り8時に布団に入った。
そこでいきなり怖くなった。
父や母は、きちんと誰かに話をしただろうか?
まだ小さい弟は誰に話をするまでに至ってない。
となると、「腕ください幽霊」は我が家の戸を叩く可能性がある。
そう思った途端、ものすごく怖くなって、布団の中に肩まですっぽり入った。腕が見えなきゃ腕がないものと勘違いするのではないか?
そんな僅かな期待に縋った。
夏になっても上掛けの外に出さずに寝た。

やがて、真夜中の1時なんて平気で起きているようになった。
起きていても玄関の戸を叩く者は現れない。
だけど、それでも、上掛けから腕を出して寝る勇気はない。

ひとり暮らしを始めてもそれは変わらない。

自分が家族を話す相手に選んだことが間違いだとわかっていても、それでもあの朝、自分に張り切って「腕ください幽霊」の話をしてきた同級生のことを恨めしく思う。
恨めしいのに、あの時の「やったぁ、3人に話した」の弾んだ声は覚えているのに、顔をちっとも覚えていない。
自分にこんな呪いをかけたのに、おそらく彼女は何も覚えてはいないのだろう。
普段はすっかり忘れていても布団を被る瞬間に思い出す。
3人に話をした自分のところには「腕ください幽霊」は来ないというのに、今夜も腕を布団の中でぎゅっと抱いて眠るのである。