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月の川#ムーンリバー

「向こう岸を見る時は両の目で見てはいけない。月の川の幻覚に負けてしまうからね」
向こう岸から助け出されたジェファーソンが言った。
直ちに政府は向こう岸を覗くための単眼鏡の製作を開始した。
しかし、その単眼鏡を覗けるのは「遠見とおみ」の能力を持つものだけだった。
多くの人間は境界線の向こうには、渦巻く炎やら、諸々を飲み込んだ濁流やら、夥しい人間が横たわる姿やら、古に描かれた地獄絵図のような光景が広がる。
それが幻覚だというのは本当だろうか?
確かめようにも、境界線を跨ぎ、一歩でも月の川に足を踏み入れようにも、足は何ものにも触れることなく奈落に落ちていく。
「向こう岸からはそんな光景は見えないというのか?」
「ジェファーソンには見えなかったというだけじゃない?」
クロウはあまりジェファーソンを好いていないようだ。とフジは認識している。
月の川。そこは先の大戦によってできた次元の歪み。広い川の対岸のように見えるのは分断された世界。
「月の川」の名もジェファーソンがそう呼んだからだった。
それ以前は何とそこを呼んでいたのか、人々は忘れてしまった。
「月の裏側に川があるって聞いたことがある」
「川?」
フジはクロウを見る。
「水が流れているわけではないよ。川のような溝があるんだ」
フジは以前もこのやり取りをしたような気がした。
相手は誰だったろう?
「ここみたいなものか?」
単眼鏡で覗くと、向こう岸までの間には、冷え冷えとした灰色の深く広い亀裂が見える。
本来、こちら側にいなくてはならない者が向こう側へ飛ばされているという。
それらを救出しなくてはならない。そんなことを言う者に限って、救い出す手立てを持たない。
フジら遠見に探させて、翔者かけるもののチカラで向こう岸に渡り、場合によっては向こう岸の者を屠ることになろうとも、こちらに連れ戻してくる。
翔者かけるもの」は距離も世界の歪みも関係なく、行きたいところに瞬時に移動できる。能力の高いものだと時間さえ関係なく跳べるとクロウは言う。
クロウは翔者だ。
「こっち側の人間だとどうやってわかるだろう?」若いクロウが問う。
「さあな」単眼鏡を覗いていたフジが言う。
画像を手渡されるのだ。
「この人物を探し出してほしい」
その人物がこの世界にどのように携わっているのかなんてフジには関係がない。
ただ不思議と、その顔を覚えてから単眼鏡を覗くと、その人物が見えてくるのだ。
「こうして単眼鏡で覗くと、羊の群れにしか見えなかったものの中に人が紛れているように見える」
「羊?」
クロウは高い塔の上でさらに背伸びする。
それが全く意味を持たないことだと知っているのに。
「顔の黒い羊さ」フジが言う。
「ふうん」
塔の上にいたクロウは今はフジの隣にいる。
そしてニッと笑ってフジに言う。
「今度、連れて行ってやるよ」
「どこに?」
「月の裏側。月の川を見せてやる」
10cmほど背の低いクロウはフジを見上げてニッと笑う。
「いくら遠見でもこちら側を向いていない月の裏側は見えないだろう?」
クロウは言う。
「なぁ、クロウ」
フジはクロウを見る。
「ジェファーソンは月の川をいつ見たんだろう?」
クロウは口を三日月のようにして笑う。
「気がついた?」クロウが言う。
「向こう岸などないんだ。向こうに見えるのはこちら側。遠見の旦那たちに探させているのは、様々な能力者だ」
「クロウ?」
「言っただろう?俺たち翔者の中には空間だけでなく時間を越えるものもいると。行って見てきたんだ。月の川は実在しない。全てはまやかし。戦いはまだ続いているんだ」
「何を言っているんだ?」
「俺たち能力者は本来この世界のものではない。次元の歪みに引っかかってわいた存在だ」
クロウは背中の羽を広げた。
翔者が持つ黒い大きな翼。
「フジの旦那。忘れてしまったかい?以前、俺に歌ってくれた歌」
「歌?」
「大昔の映画の主題歌だとあんたは言ってた」
何のことだろう?フジは思った。
歌を歌ってくれたのは・・・オマエ デハ ナカッタ カ?
「フジ!」
大きな声で名を呼ばれ、フジは振り向く。
「騙されるな。そいつはクロウじゃない」
フジは隣に立つクロウを見た。
「ヒッ」
それはみるみる姿を変え、顔の黒い羊に変わる。黒目がちな瞳は今では三日月型の目に変わっている。
「まやかしだ。片目で俺を見ろ」
羊が言う。
「ヒッ…」
フジが片目を閉じる。
が、目の前にいるのは黒い羊だ。
背中に黒い羽のある羊。
その羊がフジに向かって手を伸ばした瞬間、フジは背後から何かに捕まれ、一瞬のうちに地上に降りた。
「フジの旦那。油断し過ぎです」
クロウの声がした。
「クロウ?」
「はい」
振り向くと、フジより13cm背の高いクロウがいた。
両目で見ようが片目だろうが、クロウはいつもの黒い服で、そこにいた。
「あまり長い時間外に出ているのは危険です」
「あぁ」
フジは混乱しつつも、目の前のクロウこそ、自分が信じるべき相手だと何故か確信した。
「クロウ。あの歌を聞かせてくれないか?」
そう言うとクロウは「歌は得意じゃないと言っているじゃないですか?」と苦く笑う。
それでも、一緒に地面に座るようフジを促すと、彼の祖父が教えてくれたという歌を歌い出す。
「Moon river…」
あぁ、この歌だ。
フジはそっと両の目を閉じた。