見出し画像

暗い夏とこぐまのミーシャ

何の話からそうなったのかは覚えてないけれども、母に夏休みの思い出を訊ねたことがあった。
「あんまりこれといってないのよね」
と母は言った。
「夏休みの宿題の絵日記が嫌で仕方なかった。書くネタがないんだもの」
母の両親、私の祖父母は共稼ぎで、しかも休みが別々の曜日だったから、家族揃っての旅行など行くこともなかった、と母はいう。
「花火を見ました。お墓参りに行きました。お祭りを見に行きました。毎年同じパターン。絵日記がなくなった時は嬉しかったわ」
祖父が器用な人で、工作系の宿題はいつもやってくれたという。残念ながら自分は祖父とは会うことはない。自分が生まれる前に祖父は亡くなっている。
部活動は文化部だった母親は夏休みの特訓もなく「なまぬるく」過ごしていたという。自分はバドミントン部でしごかれ続けた。
「印象的な夏はあるんだけどね」
母は煮干しの頭をぽきりと折った。いつもは粉末の煮干しを使っていたが、誰かにもらったそれは丸干しだったので、頭と腑を取っていた。
「印象的?」
ロマンチックな話を母から聞いたことがない。少し期待した。
「モスクワオリンピックを日本がボイコットしてね」
「ボイコット?」
「参加しなかったの」
「どうして?」
「さあ?」
「さあ…って」
「当時はね。ホント、『さあ?』って感じ。少し後になってアメリカの言いなりになったのね、って思った」
「アメリカの言いなり?」
「アメリカが参加しないって言ったから。右ならいしただけ」
「ホント?」
「じゃないの?ソ連…当時はソビエト連邦のモスクワだったの。ソ連とアメリカがバチバチしていてね。そもそも開催地争いに負けたアメリカが面白くなく思ってたのもあるんじゃないのかな?ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議するべくオリンピックのボイコットとなったみたいだけどね」
母は取り終えた頭を袋にまとめた。続いて首なし煮干しの背を割って腑を取り出す。
「すごく盛り上がっていたんだけどね。『がんばれニッポン モスクワはちかい』ってコピーにCMがたくさん流れていて、それまでオリンピックあっても今ひとつわからないでいたけど、オリンピックの存在を認識した最初のオリンピックだったんだけど、結局、参加せずになって、テレビ局も大変だったんじゃないかな?」
リズミカルに煮干しを割る。自分は母の話を聞きながらぼんやりとその手元を見ている。母はこういう作業が嫌いじゃないようで、自分に手伝うよう促すことはなかった。
「NHKが総合でも演劇をよく放送していたの。本来オリンピック用に取っていた時間なんでしょ?新たに番組作るのも難しかったんじゃなかったのかな?宝塚の舞台とかね、いろいろやってた」
黒い腑が紙の上に小山を作る。
「ベルサイユのばらを初めて見たんだよね。オスカル編とアントワネット編。衝撃的だったなぁ。漫画がそのままお芝居になっていたのにも、キラキラした衣装やメイクにも、そして、芝居の途中で歌っちゃうというのも、全部初めてでびっくりしたんだよね」
母はミュージカル映画が苦手だという。「舞台ならいいけどね」暗に宝塚はokというだけなのかもしれない。
「友だちがせっせとベルサイユのばらを貸してくれてね。多分、こうなることを予想して、ベルサイユのばらの内容を覚えておいた方がいいということだったんじゃないか?って思ったくらいのタイミングだったのよね」
一度作業を中断して、母はお茶を淹れた。焙じ茶に少しだけミント茶葉を混ぜて淹れるお茶を母は好んだ。
「劇場って舞台の上だけが明るいでしょ?その舞台を撮っていてもなんとなく暗い感じがしてね。まぁ、テレビも古いのもあったかもしれないけれども画面が暗くて、テレビの前に体育座りしてみてたの」
夏休みの西日の入る部屋。差し込む西日を遮るためにカーテンを閉めた薄暗い部屋で膝を抱えた小学生が「ベルサイユのばら」を見ている。
「暗い夏だったのよ。闇の暗さではなく、澱んだ暗さ」
母はふぅっとため息をついた。
「冷夏と呼ばれる夏もあって、全然天気が良くないの。お米も取れないくらいの寒い夏。でも、暗さでいったらモスクワオリンピックの夏だわね」
モスクワオリンピックは1980年。
母は取り終えた腑を、チラシを折って作った小さな紙箱に入れると、その紙箱を丁寧に畳んだ。
「モスクワオリンピックでひとつ後悔していることがあるのよね」
「何?」
小学生が何を後悔するというのだろう?
「モスクワオリンピックのマスコットのこぐまのミーシャのぬいぐるみを買ってもらっておけばよかった、って」
「可愛かったのよ」
すっかり身だけになった煮干しをミルの中に入れながら母は言う。
「ただ、グッズによって顔つきがまるっきり変わっていて、そういうのもソ連っぽいんだろうなぁ、なんて生意気に子どもでも思ってた」
母の部屋のぬいぐるみコレクションを思い出す。半世紀近くも共にいるぬいぐるみもかなりある。その中にミーシャがいないのは残念かもしれない。
ミルが煮干しを粉砕している音を聞きながら、スマホでこぐまのミーシャを検索する。なるほど、顔つきの違うミーシャがいくつもある。母はどの子を可愛いと思っていたのだろうか?
暗い夏に似合いそうなぼんやりとした瞳で笑ういくつかのこぐまのミーシャに自分もなんだか会いたくなっていた。