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梔子の家

あれ?この香りはなんだっけ?

どこかで嗅いだことのある甘い香りに振り返る。
誰ともすれ違ってはいない。
あれ?なんだっけ?
そう思いながら歩く。
「いつも何かしら考えて歩いているよね?」
よく言われる。
むしろ何も考えずに歩けるだろうか?
無目的に歩くことができない。
ダイエットのウォーキングも、家の周りをぐるりと一周するコースは無理で、どこかにゴールを作らないと歩けない。
「ダイエットが目的、ゴールでしょ?」
それはわかる。
しばらく、普段は行かないコンビニをゴールに決めて、コンビニでお茶を買い、そして戻る、を日課にしていた。

少し暑い日だった。午前中に歩いてしまおう、午後からは友人が訪ねてくる。いつもは夕方に歩く。平日は仕事から帰ってきて、着替えて、歩く。休日はまちまち。
いつものコースで事故があって通行止めになっていた。
通行止めのテープの手前を右に曲がった。
左に曲がってもよかったが、左側にいた人集りを突き抜ける勇気がなかった。
初めて通る道だった。
長く住んでいても、目的もなく歩くこともないので通ったことのない道というのは案外多い。
住宅街だけど、こんなに道が入り組んでいるとは思わなかった。
すぐに行き止まり、私有地、諸々で迂回を繰り返していたらぽつんと小さな本屋があった。
格子戸には「梔子の家」と墨で書かれた木の看板の隣に「古本在〼」「絵葉書在〼」とあった。
格子戸を開けるとガランとした土間。奇妙に広い。上の方からも光が入る作りで奇妙に明るいし、涼しかった。再度引き戸があり「ご自由にお入りください」と表で見た文字と同じ筆跡があった。
引き戸を開けると薄暗い空間の中に、本があった。
壁には本が、平台の上には絵柄がわかるように、だけど隙間なく絵葉書が並んでいる。様々な色がそこにあるはずなのに、色を吸い取られたかのように、そこにある色が気にならなかった。平台の奥にこちらから見ると左を向くようにして、ひとりの若い男が座っていた。白い長袖のカッターシャツを着ている。
こちらが声を掛けていいものかと一瞬躊躇した瞬間、相手はこちらを向いて「いらっしゃませ」と微笑んだ。
声は高いのか低いのかよくわからない声だった。自分の耳に入るまでに何かしらのノイズが混じるような、目の前にいながら、遠いところから話しかけられているような錯覚…錯覚なのだろうか?
「すみません。主は買い出しで今週はいないんです」
「あ、いえ」
「店番の僕では役に立ちませんが、探し物があったらお声をかけてください」
それだけ言うと、優しく微笑んで再び横を向いた。どうやら本を読んでいるようだった。
先程の土間の方が明るく感じる店内だった。
かすかにさっき嗅いだ甘い香りがするような気がした。
壁の棚には本が「いろは順」で並べてあった。
ジャンルはまちまち。見たことのない本が多かった。
「三枚羽の虫」
ふと手に取った。
棚から抜くと、その本があった場所はスッと両隣の本に隠されてしまった。
薄い本で、同人誌の類かもしれないと思う本だった。A5サイズのその本はめくってみると右側のページに文字が、左側のページには写真のような、銅版画か何かのようなものが印刷されている。
言葉は左のページの絵に呼応するような、その言葉の裏にある絵を思い出させるような言葉で、ほんの一言だったり、1ページにみっしりと書かれていたり様々だった。
最後のページに小さな紙が挟めてあり「500円」と書かれてあった。
「すみません」
邪魔をするのは申し訳ないが、彼は店番だ。
「あ、はい」
やはり彼は本を読んでいて、栞を挟むとこちらを向いた。
「これをいただきたいのですが」
「ありがとうございます」
少し襟足の長い髪は細い。色白で目は大きい。唇は薄く色は鮮やか。手のひらに比べて指が長い。
本を受け取ると、最終ページから紙を抜く。抜いた紙を裏返すと何やら番号が記されている。その番号をレジに打ち込む。チラリと見えたレジスターはアンティークなデザインだった。
「500円になります」
ポケットから小銭入れを出して支払う。
「ありがとうございます」
未晒の封筒に本を入れ、青いテープで留める。
「こちらの作者の本は何冊かあるんですよ。お気に召されたたら他の本もどうぞ」
そう言って、本とレシートを寄越す。
レシートは感熱紙でないが書籍名がカタカナで印字されていた。そして、「クチナシノイエ」と店名があった。
受け取る時にまたあの香りがした。
「すみません。先ほど鉢の花を少し摘んだんです。梔子は花が終わる時に茶色くなってしまいますから」
梔子の香りだったのか。昔、祖母の家にもあった。
しかし、この店のどこに梔子があっただろう?店の奥にでもあるのだろうか?
「また寄らせていただきます」
コンビニに寄るよりも有意義かもしれない。
「絵葉書もゆっくり見たいですし」
「お待ちしております」
優しい心地よいノイズの混じる声が言った。

格子戸を開けて土間に出る。
やはり店の中よりだいぶ明るい。
「あ」
小さく声が出るほど驚いた。
大ぶりな梔子の鉢がそこにあった。
何故先程は気がつかなかったのだろう?
八重咲きの梔子はかつて祖母の家にあったものと同じだった。
香りが漂う。
自分の内にその香りを閉じ込めたくなった。
息を吸う。
そして、格子戸を開けて外に出る。

暑い。
急に現実に戻ったような気になった。
今までのことが夢だったようなになった。
慌てて後ろを振り向く。
「梔子の家」の看板を確かめる。「古本在〼」「絵葉書在〼」
袋をそっと開けて「三枚羽の虫」を確認する。
「そうだ」
ポケットからスマホを取り出しマップに記録する。
どこかで犬が吠えている。
歩き始める。
梔子の移り香が少し漂っていた。