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雨が降っていた

夢を見た。
雨の降る中、壁伝いに彼が歩いて行く夢だった。
「そっちじゃない。こっちだよ」
いくら大きな声で叫んでも、彼の耳には届いていないようだった。
雨音が全てを消していく。
叫ぶ声も、遠去かる彼の姿も。
目を覚まして、時計を見た。
振るとカタカタと音を立てる目覚まし時計は5時20分を指していた。

雨が降っていた。
鉄筋コンクリートの4階で雨音などほとんど聞こえないはずなのに、雨の音が聞こえた。
窓ガラスに雨が当たっているわけでもない。
あぁ、これも夢なのかもしれない。
のろのろと起き上がって、壁の時計を見た。
秒針がカチッカチッと時を刻むそれは6時50分を示してた。

家を出る頃は雨が止んでいた。
通勤に持ち歩いているリュックの内側のポケットにはレインコートを畳んで入れてある。
「傘よりもいいよ」と言っていたのは誰だったろう?
誰かに言われて折り畳み式の傘からレインコートに変えたはず。
それでも帰りの時間に再び雨が降る予報だったので、今日は自転車に乗らずバスに乗った。
始業時刻の15分前に会社に着いた。

その日は来客が多かった。
雨の匂いを運んでくる。
どうやら雨は降ったり止んだりしているようだった。
何人目かの客を見送りながら、部屋を出たプロジェクトリーダーが20分後に戻ってきた。
誰も名前を呼ばれていないのに、部屋にいた4人がそちらを向いた。
骨張った顔はやや蒼ざめていた。
「キミジマが死んだ」
昨日から有給を取っていたプロジェクトメンバーの名を聞いても誰も驚く様子もなかった。
現実味がないような、どこかで予感していたような、誰もが言葉なく再びモニターに顔を向けた。
だからといって、作業を再開する気配はない。
スピーカーから昼を告げるチャイムが鳴った。

夕方、職場に警察が来た。
肩のあたりが濡れている。
雨が降っているのだろう。
警察はキミジマの死が「不審死」であると言う。
何故か4人とも、いや、プロジェクトリーダーも、キミジマは「自殺」だと思っていた。
警察にいろいろ訊かれたが、おそらく誰もがまともに答えることはできなかったと思われた。
警察が部屋を出るとプロジェクトリーダーが「今後の予定並びに担当の変更」の説明を始めた。
定時まで30分を切っている。
今日は残業確定だな、と誰もがこっそりため息をついた。

部屋に着いたのは21時ちょうどだった。
遅くなったおかげで雨に濡れることなく家にたどり着けた。
昨日作ったカレーを温める。
朝の夢を思い出す。
彼は誰だ?
キミジマ?15年前に死んだ父親?いつの間にか居なくなった隣の住人?
自分の前から去って行った者たちを思い出す。
冷凍にしていたご飯をレンジで解凍する。
カレーをかける。
テーブルに置き、麦茶を注いだグラスを置く。
壁時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。
テレビを点けた。
雨が降っていた。
テレビの中で雨が降っていた。

台所で片付けを済ませ、シャワーを浴びた。
いつもはダラダラと日付が変わる頃まで起きているが、今日はなんだかひどく眠い。
ベッドに入る。
目覚ましのスイッチを元に戻す。
これで明日も6時にけたたましく鳴ってくれる。
読み差しの本を手にすることもなく、電気を消して、布団を被る。
目を閉じると、雨音が聞こえてきた。
「ザーザー」という音の中、再び朝の夢を思い出す。
いや、ひょっとしたら夢の続きを見ているのかもしれない。
向こうに歩いて行く彼をもう呼び止めようとは思わない。
それでも彼が誰なのかを知りたくて、彼の後を追った。
レインコートを着ているから傘は要らない。
足が濡れるのは嫌だったけど、彼に追いつかなくては、という思いで必死に走った。
彼は歩いているというのに、彼との距離が縮まる気配はない。
諦めて立ち止まる。
そしたら彼も立ち止まってこちらをゆっくり振り返った。
「ミカヅキ…」

ハッとして目を開けた。
真っ暗な部屋。
ぼんやりと蓄光の時計針が刺す時刻は1時5分。
彼はいったい誰なのだろう?
「ミカヅキ」の名を持つ者など誰も知らない。
暗闇の中、雨の音はもう聞こえなかった。

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