見出し画像

墓参りは好きじゃなかった。
まったく覚えていない母と、あんまりよく覚えていない祖母と、良い印象のない叔母が眠る墓。眠るといっても、相手は骨というか壺というか。「人は忘れられると本当に死んでしまうから、忘れないように思い出すために、手を合わせ祈るものなのだ」と言ったのは誰だったろう?
忘れる前に覚えていない相手など、自分にとっては最初からいないも同然。いや、そうではないのか?墓の中にいる者の存在がなければ、自分はこうしてここにはいない。
今だからこそこうして言葉にできる思いも子どもの頃は、漠然と「嫌なもの」であった。

僕は小さな従弟の手を引いて寺の境内を歩いていた。
どうしてふたりだけだったのかわからない。
小さな従弟は自分よりも墓参りの意味を理解していなかったであろう。
境内には大きな松の木と銀杏の木があった。
松の木はとても大きく、枝を支える金属の支柱が何本も建てられている。
蝉の声と、お寺の中から聞こえてくる読経の声。
不意に従弟が立ち止まった。
「どうしたの?」
彼が立ち止まったことで少しつんのめるような形になったしまった。
従弟はじっと松の木を支えている支柱を見ている。
ほとんど言葉を口にすることのない従弟が説明をするはずもない。
「何?」
僕も支柱を見る。
「蟻?」
かなりの数の蟻が支柱を行き来している。
従弟は繋いでいない方の手で蟻を指さす。
「うん。蟻」
と言うと、コクリと頷いた。
「きらきら。ぷっくり」
滅多に口をきかない従弟が言った。
「え?」
言葉の意味を考えるよりも、言葉を話したことに驚いた。
従弟はもう一度指刺して「きらきら」と言った。
蟻がきらきら?蟻を嫌いという意味だろうか?
わからない。
僕はよくよく蟻を見た。
「あっ」
支柱を降りてくる蟻の腹が、みな膨れて少し色が薄くなっている。光が当たるときらきらしているように見えなくもない。
黒い蟻の腹が膨れて琥珀色になっているのは何故だろう?
登っていこうとする蟻が寄るのか、降りてくる蟻が近づくのか。蟻たちはまるでヒソヒソ話をするかのように顔を近づけては離れ、また別の蟻とひそひそと話をする。
登っていく蟻の腹はどれも膨れていない。
腹が膨れているのは降りてくる蟻だけだった。
「本当だ。きらきらしている」
隣で従弟が頷く。
僕は支柱を見上げる。たくさんの蟻が行き来している。
「松の木の樹液を吸っているんだよ」
不意に背中で声がした。
作務衣姿の若い男の人だった。その時は作務衣など知らなかったから、不思議な服だと思った。人見知りをする従弟は僕の陰に隠れてキュッと手を強く握った。
「木の上では蝉も樹液を吸っている」
そう言って男の人は高い松の木を見上げた。
「この木は100年くらいここにいるんだ」
僕も木を見上げた。
従弟はじっと蟻を見ている。
作務衣の男の人は、小さな従弟の目線に合わせて屈むと、蟻を指さした。
「木の上に美味しい蜜があるよ」
「僕も食べに行くよ」
そう小声で言う。
従弟は一瞬ビクッと肩を震わせたが、そのまま登って行く蟻を追う。登る蟻はまた別の蟻と頭を寄せる。
「君も蜜を食べてきたのかい?」
男の人が言う。
「食べてきたよ。ほらお腹いっぱいさ」
それを聞くと従弟がにっこり笑う。
「もっと上の方を見るかい?」
男の人が訊いても、従弟は首をゆっくり振った。
「そう。お兄ちゃんは見てみるかい?」
僕は上を見上げる。たとえ男の人に抱いてもらっても、蟻はまだ支柱を歩いているところしか見ることはできなさそうだ。
「うーん、そうだね」
男の人は言った。
小さな従弟が僕の手を離すと肩から下げているポーチをごそごそと何かを探しているようだった。
ハンカチ、ティッシュ、絆創膏、小さな熊のマスコットそれらが必ずポーチに入っている。そして。
「キャンディ、くれるの?」
いちご味のキャンディを3つ取り出して、僕と男の人に差し出した。
「ありがとう」
男の人はそう言って受け取ると、さっさとキャンディを口に入れた。
そして再び屈んで従弟と同じ背丈になると、蟻たちに向かって言った。
「いちごのキャンディも美味しいよ」
登っていく蟻の一匹がこちらを向いたような気がした。
「さぁ、君は君のご馳走を食べといで」
蟻は再び登り始める。
従弟は男の人の顔をじっと見た。
男の人はポンポンと従弟の頭を撫でると立ち上がった。
「キャンディ、ありがとう。もうすぐ法事も終わるからもう少し待っていてね」
男の人は手を振ると、お墓のある方に歩いて行った。
僕も従弟も手を振って男の人を見送った。

「相変わらず蟻多いねぇ」
従弟は13年ぶりに来たお寺の境内で、松の木の支柱を行く蟻を見ている。
「覚えていたんだ」
「うん。ずーっと覚えていたけど、どこかわからなかった」
相変わらず蝉の声が響いている。
そうだろう。あの後自分たちは随分遠くに引っ越していた。
「松の木の香りが濃いよねぇ」従弟が言う。
「そう?」
「うん」
従弟は深呼吸をする。
「大きな木だねぇ」
「100年越えの木だからね」
「すごいねぇ」
そう言って、また支柱を行き交う蟻を見る。
再びこの町に戻ってきた自分たちの、夏の風物詩となる光景だった。