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闇夜

「セージ、暇?」
「どうした?」
友人の三日月蒼月がいつになく冴えない顔をして店に入って来た。
自分の営む漢方薬局は間もなく閉店時間を迎えようとしていて、もうほとんど閉店の支度は済んでいた。
「少し付き合ってくれないか?」
「飲むのか?」
「そうだな…俺の家で、どう?」
「腹減っているんだよね」
空きっ腹に飲むとすぐに酔いが回る。
「鴇川に何か頼んでおく」
少し考える。
「確か、着替えとかひと通り置きっぱなしになっていたよね?」
「あぁ」
「じゃあ、泊まっても大丈夫だね」
そう言うと蒼月は少しだけ笑ってみせた。

ビルの3階の蒼月の部屋に来るのは久しぶりだった。
蒼月はウイスキーと氷とグラスを用意すると、ひとり掛けソファに腰を下ろした。
「どうした?」
とにかく今日の蒼月は様子がおかしい。
イライラしている?落ち込んでいる?何があったというんだ?
「あのさ、この歳になって出生の秘密とか打ち明けられてもどうしようもないけど」
「え?」
蒼月は何を言っているのだろう?
そういえば蒼月はお祖父さんの養子になっていると聞いていた。
父親のことは全く聞いたことがないし、母親は物心ついた頃にはすでに亡くなっていたと聞いた。
「俺ってさ、人工的に作られた子どもだったらしい」
こちらの顔を見ずに言葉を吐き出す。
「え?」
「どうやって作ったかわからないけれどもともかく父親と呼べる人間がいないのは当然らしい」
リアクションの取りようがない。
「俺だけじゃなく、青藍も同じような形でこの世に生まれた」
「双子?」
「いや、沢山あったモノたちの中から、人になれたのは自分と青藍のふたりだけ」
「それは…」
蒼月はそこでようやく顔を上げた。
「まぁ、どうでもいいんだけどね。俺はこうして生きているし、特に問題があるわけでもない」
蒼月は左、右とゆっくり首を傾ける。途中でパキッと音がした。そしてぐるりと頭を回す。
はぁ…と大きく息を吐くとおもむろにグラスに氷を入れてウイスキーを注いだ。
少し考えて炭酸水を注ぐ。
こっちの分のグラスにも同じように注いだ。
だけどふたりともそれを飲もうとはしなかった。
タイミングよく、玄関のチャイムが鳴る。
「はいはい」
蒼月は玄関に向かった。
少しして蒼月が戻ってきた。
大きめのトレーにオードブルとサラダが乗っている。
蒼月はテーブルにそれを置くと、ラップを剥がした。
野菜サラダはふたり分というように分かれていたが、あとは大きな皿に盛られているのをふたりで突く。
「俺たちの元となったのは俺たちが祖母だと思っていた人間で、みんなそいつのイカレタ願望のせい」
「何それ?」
「わかんねぇよ。俺の母親だと聞かされていた娘もその妹もみんなそのイカレタオンナの産物」
「ねぇ、もうちょっと俺にもわかるように説明してくれる?」

蒼月の祖父、三日月玄円氏は若くして結婚した。その相手は玄円の従妹の宵月二子。彼女の心の危うさを守りたくて玄円は結婚したのだが、結果は彼女を追い詰めただけだった。
「子どもが産めないから別れてほしい」
玄円の説得は実を結ばず、二子の双子の姉である一子にも別れた方が彼女のためだと、逆に説得され、ふたりは離婚した。
その後、二子は海部内という医学博士とともに「ホムンクルス」を誕生させた。二子同様双子のホムンクルス「蒼」と「藍」だった。
「遺伝子をコピーしたとかってどうやって?」
「さぁ?」
「その海部内という博士が父親という可能性は?」
「海部内博士は女性だ」
子どもが産めないのなら作り出せばいい。二子はそう思ったのである。しかし、彼女はまだ満足していない。三日月の跡取りを産まねばならない。つまり男子が必要だと二子は思っていたのだった。
「二子だけでなく一卵性双生児の姉である一子博士も、子宮の未発達が子どもの産めない理由だったらしいけど、実際のところはどうだったのかわからない」
ホムンクルスを生み出すことは成功した。次はそれを男にするにはどうしたらよいか?
「そこから15年以上かけて、ふたりはまんまと成功した」
それが蒼月だというのか?
蒼月が玄円氏の養子になったのは、玄円氏の意思によるものなのか?二子の思惑なのか?
「本当のことはわからない。祖父に直接訊く勇気は今の俺にはまだない」
「誰がその話を?」
「祖父の甥で、幼い頃の青藍の主治医をしていた望月天明医師だ」
宵月の家はもともと学者・研究者を多く輩出していた。一子もまた植物学者だった。水生植物の研究者だった一子の死後、一子の住んでいた屋敷はそのまま水蓮の研究所になっていた。最近になって、屋敷の一部の改修工事がされた時、出てきた古い書類を天明医師が引き取ったのだという。
「今、宵月を名乗っているのは青藍だけなんだ」
天明医師は、それらを青藍に渡すのは危険なような気がしたのだった。
「その判断は正しかった」
蒼月は言った。
「今の青藍がそれらを見たらどうなったかと思うとゾッとするよ」
蒼月は自分のことより、このことを知った青藍のことを心配していた。彼はかなり内省的なイメージだったが、それは間違いではないのだろう。
「それはたまたまだったんだ。俺が産まれたすぐ後に、蒼が流行り病で死んだ。その死が二子だけでなく蒼の妹の藍も狂わせた、と一子の日記にはあった」
「読んだのか?」
蒼月は頷いた。
「書類というのはほとんどが一子博士の個人的な雑記帳、日記だったんだ。それは今俺が預かっている」
蒼月は空になったグラスにウイスキーを注いだ。
「その流行り病で死んだのは蒼だけでなく、海部内博士もまた同じ頃に亡くなっている」
二子と藍は突き動かされるように再び生命の誕生に勤しんだ。
ふたりが求めたのは「蒼」であり「海部内博士」だった。
しかし、彼女たちがすっかり忘れていたことがあった。
そこにあるのは「男」として生まれてくるしかない命だということを。
二子は機械を…子宮の偽物ともいうべきものだ…を操作することはできても遺伝子操作はできない。
「何度か挑戦して、ようやく胎児と呼べるものになったそれをふたりは毎日眺めていたらしい。そして、ある日、その子が男の子だとわかった」
ふたりはその機械のスイッチを切ろうとした。
いや、一度はスイッチを切った。
だがそこに居合わせた一子が再びスイッチを入れた。
「また作ればいいでしょ?」
一子はそう言った。
一子は最初はそのまま機械の中の子が死んでしまうことを望んだ。でも、その子の目が、スイッチの切れた瞬間驚いたように開き、そして苦しそうに表情を歪ませるのを見て、この子はすでに人間なのだと思った。
二子も藍も、不思議と一子の言葉には従順だった。
一子はその子の成長が気になった。
またふたりがスイッチを切るのではないか?
自分の知らないところでふたりがスイッチを切って、あの子が死んだら…それはそれで仕方がないで済むのかもしれない。そう思うこともあったが、その度にあの目が開いたあの時を思い出す。その顔はあまりにも自分たちの幼い頃、蒼や藍の幼い頃にそっくりだった。そして同じ顔を持つ幼い赤子を思い出させる。
「一子博士は祖父にこっそり連絡を取り、二子たちのしていることを伝えた」
ある時、玄円氏は医者である兄と共に宵月邸に行き、地下にあったその機械を見つけた。
「産月にはまだ少し足りなかったらしいが、青藍は機械から出され、大伯父がそのまま病院で未熟児として治療をしたらしい」
三日月・宵月の親戚は大騒ぎになった。倫理に反する行為を身内がしていたのだ。機械は玄円らの手で壊された。ストックされていた「細胞」も全て破棄された。
「青藍の存在までも悪しく言う者もいて、それはその後、俺も実際耳にして、子ども心にもすごく腹が立ったのを覚えている」
二子も藍も精神的に大きくダメージを受けていたが、一子の知り合いの精神科医に「暗示」をかけてもらうことで「正常」になった。
二子には蒼と藍を産んだという記憶。藍には青藍を産んだという記憶を与えた。
「一子博士の日記には『精神科医である友人』としか記されていないその人は、蒼も最初からいなかったことにもできると博士に言ったらしいが、蒼の存在を無かったことにするのは悲しすぎると断ったらしい。だから、俺が蒼の子どもという記憶も二子には与えた」
青藍も退院して、そのあとは一見穏やかに過ごしていたという。
「自分が初めて青藍に会ったのは4歳くらいの時だった。ふたつ下の青藍は、まだ言葉をうまく言えないけれども、俺が何を言っても、何をしても嬉しそうに楽しそうに笑って、手を叩いて、そしてぴったりとくっついてくれてとても可愛かったんだ」
青藍は藍という若い母親と二子という優しい祖母に育てられていた…はずだった。
「一子博士の日記が欠落している時期があってね。俺はあんまり博士には会ったことがなかったけれど、俺の記憶の中では一子博士は車椅子に乗っている」
おそらく日記のない間に病気か怪我かをしていたのかもしれない。
一子の日記が再開されて少し経った頃。それは過失だったのか故意だったのかわからない。二子が睡眠薬の飲み過ぎで死んだ。
死んだのは8月の終わり頃だった。
「葬式の時に久しぶりに青藍に会った。舌足らずに話す言葉が可愛かったけれど、無邪気な笑顔の印象が少し違って見えたような気がした」
葬式の間も大人たちは皆藍と青藍のことばかり見てはひそひそと話をしている。蒼月はそれがとても気になって、青藍を側に置き、どこかに行くときは必ず連れて歩いた。
葬式も全て終わり、幾人かの親戚だけが残り2階の部屋で話をしていた時だった。暑い日で、テラスにつながる大きな窓は開けっ放しになっていた。急にそれまで部屋の入り口付近の椅子に座っていた藍がフラフラとテラスに出た。
広いテラスだった。
テラスにも数人の大人たちと、蒼月と青藍がいた。
みんな藍をチラリと目の端でとらえるとヒソヒソと話をしている。
蒼月は青藍を連れて部屋の中へ戻ろうとした。
「ママ」
青藍が自分とすれ違った母の方を向いた。
藍は白い木製の手摺りに寄りかかるようにしてこちらを見ていた。裾の長いドレスのような黒い喪服が風に靡く。藍の長い髪も風に揺れる。
「綺麗だな、なんて思ったんだ。子どもでもね。自分の母の双子の妹。自分の母親もこんな感じだったのかな?なんてね」
藍は青藍と蒼月に向かって微笑んだように見えた。その次の瞬間、手摺りの向こうにガクンと上半身を倒し、そのまま藍が下に落ちていった。
「ママっ!」
青藍が蒼月の手を振り切って柵の方に走り寄った。
テラスにいた大人たちは声も上げずに佇んでいるだけだった。
「青藍!」
蒼月は「ママ、ママ」と言いながら、手摺りによじ登ろうとしている青藍を後ろから抱きしめた。
「大人たちがコソコソ話をしている。誰も自分たちの方に来ようとしない。部屋の奥からお祖父様と大伯父様が駆けてきたのを見て大人たちはようやく言うのをやめた」
蒼月は青藍を連れてそのまま青藍の部屋へ向かった。3歳の子どもはすでにひとり部屋を与えられ、ひとりでそこで過ごす時間も多かった。
青藍の部屋の青藍のベッドにふたりで入った。
そして青藍をギュッと抱きしめて眠った。
藍の葬儀はごく僅かな人数で行われた。
青藍は始終、母親の姿を探していた。
「一子博士の日記が不自然でね。この葬儀の前後もあまり書かれていないんだ」
もっとも、自分の双子の片割れが死んでしまったのだからショックもあったのだろう。日記どころではなかったのかもしれない。
「ただ、藍の葬儀後、ふたりの部屋を片付けたことが書かれている日があって、『これでよかった。自分の選択に間違いはなかった』と書いてあったんだ。それが何を指しているのか?単純に部屋を片付けたことではないような気がするんだ」
日記には友人である精神科医への謝辞も綴られていた。
おそらく、ふたりは死ぬまで、暗示の中で生きていたのだろう。
一子は青藍とふたりになった。
青藍がここにいるのはあの時、一子が機械のスイッチを戻したからだ。
一子には目の前にいる青藍よりも、あの時の機械の中にいた青藍の方が印象強かった。そして怖かった。だから二子らがいた頃は極力青藍との接触を避けていた。
今も青藍のことは怖い。だが、あの時と同じように自分が守らねばという思いも強かった。

「母親の死は幼い青藍には理解できていなかったかもしれない。でも、あの時の異様な空気は青藍から屈託のない笑顔を奪ってしまった」
蒼月はそう言うと何杯目かの酒を飲み干した。
ウイスキーのボトルにはもうほとんど酒は残っていなかった。
「一子博士はおそらく自分が長くないことを知っていたのだと思う。日記には本当に最後の方にしかそれに関しては書かれていないけど、心臓があまり丈夫ではないようなことがあってね」
「それって?」
「青藍もそうだし、流行り病で死んだ蒼も同じだったんじゃないかな?」
つまりは、彼らのオリジナルは一子となるのだろうか?目の前の蒼月はどうなのだろう?
「生まれ方なのかもしれない。一子博士や蒼が生まれた時の様子はわからないからね」
蒼月は言う。
「心臓もだけどさ、星嗣」
蒼月は俺の顔をじっと見た。
「俺にも、二子や藍らのような狂気もあるということだよ」
蒼月はふぅっとため息をついた。
テーブルの上のものはあらかた全部平らげられている。
蒼月は手持ち無沙汰というように、箸でパセリを突いた。
「俺もさ、青藍を失くすことを思うと、どうしようもない気持ちになる。だからわざと大人になってからは仕事に託けて距離を置くようにしてみたりもした」
そうだ。ずっと昔から、蒼月の中せの青藍くんの占める割合の多さに、僕はいつも閉口させられていた。
「一子博士だって研究に打ち込むことで狂気を抑えていたのかもしれない」
自宅に研究室を作るほど熱心な研究者だった宵月一子博士。
「青藍にも狂気はある。ただでさえも自分に自信のない青藍だ。あいつがこれらのことを知ったらどうなる?間違いなく死んでしまう」
ついさっき聞いた笑顔のままに落ちていく藍の姿が頭に浮かんだ。フルフルと思わず頭を振った。
「だから、このことは青藍には知られちゃいけない。そうだろう?星嗣」
思わず頷く。
「でも、これらを俺ひとりで抱えていられなくて。誰かに聞いてほしくて。共有してもらいたくて」
その相手に自分を選んでくれたのだとしたら、むしろそれを嬉しく思う自分がいた。
「僕でよければ、何でも言ってくれよ」
「ありがとう」
蒼月の目が少し潤んでいるのは酒のせいばかりではないだろう。

客間のベッドに入ってぼんやりと考えた。
蒼月の言う「狂気」が宵月一子にもあったとしたら、こう考えるのはどうだろう?
一子の日記は全て妄想だと。
蒼と藍が生まれた時のことも、蒼月が生まれた時のことも、真実を知っている者はもう誰もいないのだから。
「あ、でも、青藍くんの場合は違うか…」
ひょっとして蒼月も日記は嘘だと思い込もうとしているのかもしれない。だからこそ、お祖父様に確認できずにいるのではないか?お祖父様に事実だと認められるのを怖れているのではないか?
今夜は満月、スーパームーンだと世間は騒いでいた。遮光式のカーテンロールは光も影も映さない。のっぺりとした闇を作る。その闇に背中を向けるようにして、改めて僕は目を閉じた。


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