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胡桃

ものすごく小さかった頃の思い出。まだ彼が屈託なく笑う頃だった。
お祖母様の家にあったくるみ割り人形を見て彼が怖がって泣いたのを覚えている。
「まあ、確かに怖いわな」
目の前にあるくるみ割り人形を手に取る。鴇川の店の常連のドイツ土産だという。目は見開かれ、白い歯は大きく奇妙なほどに並んでいる。どちらも仕方がない話だ。描かれているのだから。
「いわゆるギャン泣きってやつ?年代物の人形でね。俺もその人形見てちょっと引いたの覚えている」
「キミは泣かなかったの?」
「そりゃあ…」
正しくは泣き止まない彼に手を焼いて自分も泣いてしまったわけだが。ふたりで泣いているのをお祖母様に見られて恥ずかしかったのを覚えている。あのくるみ割り人形はその後どこへいってしまったのだろう?それっきり見かけたことはない。
この人形はまだ柔和な顔つきだ。ぼんやりと覚えているあのくるみ割り人形は目をひんむき、怒りの表情をしていたと思う。なにせ顎で強固なくるみの殻を割るのだ。優しい顔をしていられない。しかも彼らは兵士なのである。
「それ、青藍が来る前に仕舞っておけよ」
「覚えてるのかな?」
「いや、多分覚えてないと思う」
「あ…」
店のドアが開き「ごめんなさい。待たせちゃった」と声がした。いつも持ち歩いている革製のメッセンジャーバッグが今日は奇妙に膨らんでいる。パソコンを持ってきたにしては不自然な膨らみが気になった。
ランチタイムの終わりギリギリの時間に待ち合わせたのは、ランチ以外にも用があったから。鴇川の店の常連から暗号化されたデータを解析してほしいという依頼を受けた。そこは青藍の得意分野だ。だが、昨日の依頼で今夜中は少し強引過ぎる。
「いろいろ訳ありらしいし、恩を売っといて損はしない相手だよ」
と鴇川は言っていた。
まぁ、いい。
一昨日まで試験だったという青藍に久しぶりに会える。
青藍は腕時計と壁に掛かる時計を見比べる。
「大丈夫。約束の時間通りだよ」鴇川が言う。
「よかった」
青藍がカウンターにいる自分の隣に座る。
「昼飯はまだだろう?」
「うん」
「いつものセットでいい?」と鴇川が訊ねる。
「あ、お願いできますか?すみません。いつも無理を言って」
「大丈夫。今度ね、お昼に出そうかな?と思っているんだ。ダイエット中の女の子向けで」
鴇川がそう言って笑った。青藍は恥ずかしそうに俯いた。
青藍は普通のランチセットだと半分も食べることなく終わってしまう。とにかく食が細い。
「あ、マスター。お店でくるみ使います?」
俯いていた青藍が顔を上げて訊ねる。
ついさっきまでくるみ割り人形の話をしていた自分たちは、少なからず驚いた。くるみ割り人形はどうやらカウンター下に隠されたようだ。
「うん。使うけど。どうしたの?」
「あの」
青藍はごそごそと肩にかけていたメッセンジャーバッグから殻付きのくるみの入った袋を取り出した。
「これは珍しい。オニグルミだね」
「珍しいんですか?」青藍が訊ねる。
「殻が硬くて厚い割には中身が小さくてね。味はいいんだけどなかなか流通はされない。どこかで拾ってきたのかい?」
鴇川の言葉にまさかと言いそうになったが、ひょっとして森から拾ってきたのだろうか?青藍が住む「森の家」にはまさに森がある。森にどんな木があるのかなんて覚えていない。
「えっと、じゃあ、こっちは?」
再びバッグの中から殻付きくるみの入った袋を取り出した。先ほどのくるみに比べて表面があまりゴツゴツしていない。
「これはひょっとしてヒメグルミ、かな?」
「あ、やっぱり種類が違うんですね?」
「これもあんまり流通してないんだよね」
「やはり中身が小さいとか?」
鴇川に訊ねる。
「そうなんだよ。さっきのオニグルミよりも小さい」と鴇川は答える。
「どちらも味はいいんだけどね」
「で、これはどうしたんだ?」
と青藍に訊ねる。
「えっと、家の森を探索して、そしたらたくさん落ちてて、十和部さんと拾ったんだ。でね、すんごくいっぱい拾ったから、マスターのお店で使うかな?と思って」
日本語が少しおかしいのは興奮している証拠だ。
「まだ、あるのか?」
「うん」
青藍は嬉しそうに頷く。
今年21歳とは思えない無邪気さだ。
「兄さんには割ってから持ってこようか?それとも兄さんが割る?」
「おまえが割れるのか?」
そう言うと両頬をぷくりを膨らませた。
「十和部さんとお祖父様にくるみ割りを買っていただきました」
祖父が日本に帰って来ていたとは聞いていなかった。そのことを口にすると「送ってくれたんです」と青藍は言った。
「僕、くるみって苦手だったんです」青藍が言う。
「くるみって脳みそみたいな形で、食べるの怖かったんです」
脳みそ?そうだろうか?
「でも、このくるみは怖い形してなくて。食べてみたら美味しかった」
「リスの気持ちがわかった?」鴇川が笑う。
「十和部さんも言ってました。リスが硬い殻を割って食べる気持ちがわかりましたか?って」
鴇川は引き出しの中から真鍮製のナットクラッカーを取り出すとオニグルミをひとつ挟んだ。
くるみがパキッと音を立てる。
手のひらに乗せたくるみがふたつに分かれた。それを皿の上に置く。殻が厚く、凸凹のほとんどない中身は左右が不均等なところが天然物の雰囲気を出している。もっとも単なる品種の特徴でしかないのだろうが。
「ちょっと待ってて」
そう言うと鴇川はカウンターの中から奥の厨房に入っていった。
「青藍くんには悪いけど」
戻ってきた鴇川の手にはくるみがひとつ。青藍の持ってきたくるみより殻の色が薄い。
鴇川は持ってきたくるみを割る。
「こっちはいわゆるセイヨウクルミ」
そう言って先程の皿に乗せた。
「わっ!」
一瞬眉を顰めた青藍だったが、くるみを見比べて素直に驚いている。
一緒になって覗き込む。
「へぇ、随分と違うものだ」
殻の厚さが全く違う。その分、中身の大きさは圧倒的にセイヨウクルミの方が大きかった。
「でしょう?味もね、かなり違うよ。青藍くん、こっち食べれる?」
殻の中に収まったセイヨウクルミは青藍の言う「脳みそ」に見えなくもない。
「うん」と頷いたもののなかなか手を出さない青藍を見て、鴇川は後ろの棚から何やら取り出した。
「これはどうかな?」
欠けたくるみだった。凹凸のない、オニグルミの中身に似た感じの形状をしている。
「これもセイヨウクルミなんだけどね、形、ちょっと違うでしょ?」
青藍はひとつ摘むと、口に入れた。
コリコリと音を立てて咀嚼する。
「あれ?」そう言って目を丸くする。
「兄さんもマスターも食べてみて。全然違う」
割った殻から中身を取り出して、食べてみる。
予想はしていたが、こうして食べ比べるとかなり違う。
「青藍くんの持ってきたくるみの味をスタンダードだと思ったら、他のくるみがくるみじゃなくなっちゃうよ」鴇川が言う。
「確かに」
歯応えも全く別物だった。
ランチプレートを持ってきたスタッフの後藤くんが珍しそうにくるみを覗く。
「俺、ヒメグルミって初めて見るかもしれない」
後藤くんがそう言うと「食べてみます?」と青藍が嬉しそうに言った。
「いいんですか?」
後藤くんも珍しく青藍が声を掛けたので嬉しそうに応える。
青藍は三たびバッグの中覗く。
「僕が割ります」
出てきたのは銀色のリスだった。
みんなが驚いているのがわかったのだろう。
「くるみ割りです。十和部さんからいただきました」
そう言うとヒメグルミをひとつリスの前足に乗せた。
にぎりになっている尻尾を掴むと前足と顎の間でパキッと音を立ててくるみが割れた。
ヒメグルミの中身はオニグルミ以上に少ない。
鴇川と後藤くんが小さなくるみをそれぞれ摘んだ。
「うん美味しい」
ふたりは声を揃えて言った。
「よかったぁ」
青藍は本当に嬉しそうだった。
「マスター、もしもよろしかったらセイヨウクルミをひとつ分けてもらえませんか?」
「いいよ。それで割ってみたいんだね。多分手応えが全然違うよ」
鴇川はそういうと再び奥の厨房に入っていく。
後藤くんは「くるみ和えとか食べられます?」と青藍に訊いている。
自分は青藍のランチプレートをぼんやり見ていた。お子様ランチとあまり変わらぬボリュームのプレート。それを全て平らげるようになったのはここ数年のことだ。
「くるみ和えって胡麻和えとかピーナッツ和えとかと同じ感じですか?」
「そうです」
「食べてみたいです」
「じゃあ、次にプレート作る際はくるみ和え付けますね」
ちなみに今日は洋風プレート。卵サンドとレタスとアボガドのサラダとオリジナルソーセージ。
そろそろランチタイムが終わる。後藤くんが表のプレートを「CLOSE」に変える。
青藍はお子様ランチレベルのランチプレートを20分くらいかけてゆっくり食べた。
「くるみのローストとか青藍くん食べる?」
「今までくるみを食べてこなかったので、ローストしたものとか食べたことないです」
「じゃあ、帰りに少し分けてあげるよ。ローストしたのと、黒砂糖をまぶしたものと」
「え?いいんですか?ありがとうございます」
鴇川と青藍が盛り上がっている。
少し面白くない。
そう思っている自分に気がついた。
青藍が他人に慣れるのはいいことだとわかっていても、ずっと、自分に頼って、いつも自分の背中に隠れていた青藍が少しずつ自分から離れていくような気もして複雑だった。
「ねぇ、兄さん」
そうだ。日本に来てから青藍はそれまで「お兄ちゃん」と呼んでいたのが人前では「兄さん」になった。
「明日は時間ある?こっちに来れる?」
不意に小さな声で青藍が言う。
「ん?どうした?」
「明日の天気予報は晴れなんだけど」
青藍との会話は少し難しい。脈絡のない会話の時は青藍が何かを期待していることが多い。
「一緒にくるみを拾いたくて」
そう言ってにっこり笑うがこちらは少し拍子抜けた。
「十和部さんが、小さい頃僕が兄さんの後をついてくるみやどんぐりを拾っていたのを思い出します、って言うんだけど、肝心の僕はちっとも覚えていなくて。だから、また一緒に拾いたいなって」
くすぐったいような、鼻の奥がツンとくるような、何ともいえない気持ちになった。まだうまく言葉の出ない青藍の手を引いて、庭を散歩しては落ちている木の実を拾って渡すと、「これは何?」というような顔をしてじっとこちらを見る。「どんぐりだよ」「くるみだよ」「りすさんのご飯だよ」青藍はりすも姿を探していたのか辺りをキョロキョロと見回す。青藍の部屋から見える大きな欅の木の下に拾ってどんぐりを置いて帰る。青藍はひとりでいる時はいつもその木を見ていると後から聞いた。りすを見かけると自分の置いたどんぐりを見つけてそこに来ていると思っているようで、とても嬉しそうにしているとも聞いていた。そういう柔らかな記憶も青藍にはないのだと思うと、少し悲しかった。
「ダメかな?」
そう言ってこちらの顔を覗き込む。
「ダメなわけないだろう?」
「よかったぁ」
と心底ホッとしたというような笑みを浮かべる。
たった、くるみを一緒に拾うっていうだけだろう?それも大の男が…と言いたかったが言えない。言う必要もない。
「じゃあ、サクッと仕事を済ませてしまおうぜ」
「うん」
青藍の笑顔を見てホッとする。
今は、今のこの日常が続くことを願うだけだった。

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番外編