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夏の道行 (poison ep0)

『山荘の夜は一時を過ぎた。雨がひどく降っている』
「有島武郎の遺書ですね」
不意に声がして尾崎の肩が揺れた。
「おまえ、気配を消して近付くなよ。おっかない」
「すいません」
久遠がぺこりと頭を下げた。
「で、これがなんだって?」
「作家の有島武郎の遺書ですよ」
「アリシマタケオ?」
「山荘の夜は一時を過ぎた。雨がひどく降っている。私たちは長い道を歩いたので、濡れそぼちながら最後の営みをしている」
久遠の声を聞きながら尾崎が手にした紙に書かれた文字を目で追った。
「森厳だとか悲壮だとか言えば言える光景だが、実際私たち、戯れつつあるふたりの小児に等しい」
尾崎は奇妙なものを見る目で久遠を見た。
「愛の前に死がかくまでも無力なものだとは、この瞬間まで思わなかった」
「おまえ、よく覚えているな」
尾崎に言われ、久遠は「え?」と少し驚いたような顔をした。
「そこで終わりですか?」
「あぁ」と尾崎は頷いた。
「だとしたら、見つかる気満々ですね」

尾崎と久遠は所轄の刑事だ。
失踪届を出しに来た水島ひな野の様子がおかしなことに気づいた担当者が、刑事課に相談に来た。ひな野が警察に来たのは、これが最初ではなかったからだ。
「さっきの話だが」
車の中で尾崎は運転している久遠に話しかけた。
「なんです?」
「アリシマタケオ」
「大正時代の作家です」
「大正?」
尾崎は素っ頓狂な声を上げた。
ふたりとも平成生まれだ。
大正はかなり遠い時代だった。
「なんですか?」
「おまえ、本読むんだ」
「あー。まぁ、そうですね」
「へぇ?」
「意外ですか?」
「まぁ」
久遠はクスクス笑った。
「で?俺が本を読むかどうかが聞きたかったんですか?」
「それもだけど」
「『見つかる気満々』ですか?」
「そうだ」
尾崎は頷いた。
「有島武郎の遺書の最後は『おそらく私達の死骸は腐乱して見つかるだろう』で終わっているんです」
「まさか」
「そう。実際腐乱しきった状態で見つかる。確か6月9日に亡くなって、7月7日に発見された」
「よく覚えているな」
「6月9日が誕生日の祖母が何度もこの話をしたんです。もっとも祖母は有島武郎が亡くなって20年後に生まれてますけどね」
久遠は基本記憶力がいい。尾崎は後輩である久遠のその点には敵わないと思っている。
「梅雨の時期。今のようにエアコンがあるわけでもないですからね」
尾崎は窓の外を見る。
夏の盛り。
年々夏の暑さは酷くなっている。

ふたりは水島ひな野に会って話を聞いていた。
水島ひな野の夫・水島芳雄はやはり作家だった。
つい先月も新刊を出したベストセラー作家だった。
恋愛を軸とした人間模様を得意とする作家だった。
「不倫、ですか?」
「お恥ずかしい話です。もう随分と前からです」
40代半ばの売れっ子作家とその従妹でもある妻との間には子どもはいなかった。
「別れたところで赤の他人というわけにはいきませんからね」
ひな野は言った。つまり、ふたりの間には、恋愛的感情はほとんどないということだろう。
「ただ、今回のお相手はとても情熱的な方のようで」
ひな野と離婚はしていないが、片方の天秤・不倫相手はしばしば変わるのだとひな野は言った。
ひな野は自分のスマホを取り出し操作すると、一枚の写真を尾崎たちに見せた。
「篠川シオン」
ふたりの人物が写っていた。
「私の友人がわざわざ送ってくれたんです」
写真の人物は水島芳雄と篠川シオン。篠川は女優で、去年映画化した水島芳雄の作品で主人公を演じていた。まだ30歳になったばかりだが、美人演技派と言われている。ただ、彼女は共演した相手と必ず恋仲になるという噂もあった。
「確認したら、篠川さんも一昨日から行方がわからないとのことでした」
久遠は署に確認をしたが、篠川シオンの失踪届はまだ出ていないようだった。
水島ひな野としても、丸一日帰って来ないだけでは気にしなかった。
ただ昨日、夫宛に届いた郵便物を夫の書斎の机に置こうとした時、自分宛の手紙が置いてあったのと、その夜遅く夫からのメールが届いたのとで、これはただならぬことだと、警察に失踪届を出したのだった。
手紙には遺言書について書かれてあった。
「さんざん迷惑をかけて申し訳ない。自分の作品の印税はそのまま君に入るから心配せずに。詳しくは弁護士の大苫先生に話を聞いてくれ」
手書きの手紙だった。
そしてメールの内容が有島武郎の遺書だったのである。

ひな野にふたりが、いや、水島芳雄が行きそうな場所を訊ねた。
「軽井沢に別荘があります」

「お約束通りだな。まるで水島が自分で書く小説のようだ」尾崎が言った。
「水島芳雄は読んだことないんです」久遠が言う。
「尾崎さん、読んだんですか?」
「映画を見ただけだ」
「いが〜い。恋愛ドラマとか見るんだ」
「たまたまだ」
「あ、奥さんと一緒ですね」
「ふん」
地元の警察にも連絡は入れた。
その上、ふたりは軽井沢に向かった。
「メールが送られてきた時刻、軽井沢は雨でしたよ」
久遠が言った。
「しかも調べたら、スマホのGPSは解除されていなかった」
「見つけてくれと言わんばかりだな」
尾崎は言った。
程なく、ふたりに長野県警から連絡があった。
水島芳雄の死体が自身の別荘で見つかったという。睡眠薬を大量に飲んでの自殺だった。あわよくば助かりたい。そう思っていたかもしれない。
「篠川シオンは?」
「水島ひとりです」
「どういうことだ?」
尾崎と久遠は顔を見合わせた。

結果を言えば篠川シオンは新しい恋人と一緒だった。
翌日、篠川のマネージャーから連絡を受け、尾崎と久遠は篠川シオンに会った。
「水島先生には確かに一緒に行こうと誘われていました。でもなんだか怖くって。それに私、先生とはそろそろ別れたいと思っていたし。仕事があると言って断りました」
篠川シオンのアリバイは完璧だった。
先日ドラマで共演した20歳上の俳優と一緒だった。
相手は随分前に妻を亡くし独身。目撃されたところで何ら問題はないと、宿泊先のホテルでは堂々としていた。そのため、ホテル従業員の多くがふたりを目撃、記憶していた。
水島芳雄は自殺で処理された。

水島芳雄の自殺の理由は不明とされた。
まさか女に捨てられたとは言えない。
篠川シオンとの関係は世間にはバレていなかったようだった。
校正中だった水島の新作はそのまま「絶筆」として世に出た。
水島ひな野は東京の本宅を処分し、夫の死んだ軽井沢の別荘に引っ越したことが、一度週刊誌の記事になったのは、冬の訪れを感じる頃の話だった。



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