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月の裏側を覗く必要はない・3

篠原はギョッとした様子で直井を見た。
「あぁ、事件全てが…ではなく、この脅迫状は大下代議士が作成したのじゃないかな?と思うんです」
「それは何故?」
篠原が訊ねる。
「僕の無事が確認できたからです。あともうひとつは大下代議士が国会議員でなくなれば、総裁、総理に再登板しなくてもいい。大下先生はよほど政界から足を洗いたいんですね」
篠原弁護士は無言で頷いた。
「もう一度お尋ねします。僕を誘拐し損ねた実行犯は誰なんですか?」
折角誘拐した直井を篠原たちに横取りされた気の毒な実行犯が直井の予想した人物であれば、誰かの書いたシナリオが見えてくる。
篠原はスーツの裏ポケットから手帳を出してふたりの名前を読み上げた。
「あぁ…」
かつて、直井の所属事務所にいた「先輩たち」だった。
直井のグループがメジャーデビューする少し前に先輩グループのメンバーのひとりが刑事事件を起こしグループは解散。事件を起こした者を含め6人全てマネージメント契約の終了を言い渡された。そのうちの3人はグループのマネージャーと共に独立。他のメンバーは芸能界を去った。正しくは表舞台から去っただけで、刑事事件を起こした本人も執行猶予がついたこともあって、事務所に残り、3人は裏方としての仕事についていた。
直井はふたりの名前を聞いて「どうして?」と「やっぱり」が同時に浮かぶ。
ひとりは現場マネージャーとして、昨日の収録で一緒だった後輩についてT局に来ていた。そしてもうひとりは、N局でのトラブルを伝えに来たチーフマネージャーの運転手としてやはりT局に来ていた。
そしてもうひとり。曲輪草二郎は件の事件を起こしたメンバーだった。芸能活動をしていた頃は曲輪爽と名乗っていた。誘拐の話を持ちかけられたふたりは、曲輪からその理由を純粋に事務所に対しての恨みだと聞いていた。事務所には他にも警察の世話になった者がいたのに、自分たちにだけ事務所の庇護はなかった…彼らはそう語っていたと篠原は言う。
「でもよく阻止できましたね」
直井が他人事のように感心して言う。
「先程も言いましたが私たちはあなたの近辺にずっと控えていたのです」
付いていたのは昨日だけではないと篠原は言う。
昨日も篠原側のスタッフが直井の控室付近で様子を伺っていた。すると、事務所のスタッフと思われるふたりが直井の控室に入っていった。控室に入る際に大きめのスーツケースを運び込んだのを不審に思い、ふたりが控室を出る際、密かに写真を撮り、駐車場にいる他のスタッフに送った。その後、控室を確認すると直井の姿はなかった。直井の鞄が残っていたのでそれを持ち、おそらく駐車場に向かったであろうふたりを追った。
テレビ局のあらゆる出口に篠原側のスタッフが待機していたという。
そしてふたりが地下駐車場に現れたところで、皆が駐車場に集結。
そして、ふたりがスーツケースからトランクに直井を移したところで皆でふたりを取り囲んだ。
「ふたりは作戦が失敗したことを認めると、こちらの質問に素直に答えているようです。ただ曲輪さんにはいまだ連絡がつかない状態のようです」
本来の始業時間にもまだ魔がある。曲輪は原則、社内で仕事をしている。タレントに付いてテレビ局等に行くには、曲輪の名前は悪目立ちだった。
曲輪は現社長の息子だが、現時点で次期社長になるといわれている専務の秘書のような仕事をしていた。肩書きは総務部長。事務所の運営のノウハウを学べと暗に言われているようなものだった。
本来ならばある程度芸能界で活躍した後、社長は息子である彼に社長を継がせるつもりだっただろう。でも、彼が起こしたトラブルのお陰で継ぐ前にワンクッション必要になった。会社の庇護がなかったのも全て彼が社長の息子であったからこそなのだということに、彼はいまだに気が付かずにいるのだろうか?社長への恨みはすなわち実父へ対する恨みであり甘えでもある。直井は暗澹たる気持ちになった。
「直井さんがこうしてこちらにいるのは舟川さんを通じて社長もご存じなはずです。杉下マネージャーにも昨日こちらに到着したあとからは全て話が伝わっています。現在は杉下さんが細かいことの連絡窓口になってくださっています」
つまり、昨日局で杉下にあった時点では、杉下は何も知らなかったということだ。
「ちなみに今現在、事務所の方には身代金の要求などの連絡は一切入っていないということです。ま、当然ですよね」
直井はふぅっと息を吐いた。
「ふたりは罪に問われるんですか?」
「あなたが告訴すればですがね。ふたりは直接、舟川さんが話を訊いています。実行犯が誰であったか、舟川さんが社長に伝えたかどうかは不明です」
「曲輪さんが中心になってのことだと社長が知っているならば、社長も大体予想はつくと思います」
そうだろう、と直井は思った。
「彼らは事務所に残るんでしょうかね?」
篠原に問われ、直井は一度目を伏せて、再び顔を上げると「残ってもらいます」と言った。
「なるほど…」
それが直井の優しさからではないことを篠原は感じた。
「大下先生があなたに跡を継がせたいと思うのがわかります」
とにかく曲輪から話を訊く必要はあるだろう。
篠原が大下の私設秘書から聞いた、党の若手議員との接触も裏は取れていない。
最後に曲輪から連絡があったのは昨日の夜だった。約束の時間になっても連絡のない実行班に昨夜20時近くに曲輪から連絡があった。
すでに舟川と面談中だったふたりは、車の不具合で、別の車に乗り換えてもうすぐ着くと、舟川に指示されそう返した。そして、直井の誘拐を阻止したスタッフが、彼らになりすまして約束の場所に行ったが、そこには曲輪の姿はなかった。
「その後、何度か連絡をしたがなんの応答もない。こっちの状況を知っての雲隠れか?それとも別のトラブルに巻き込まれたか?」
社長の息子でありながら苗字が違うのは曲輪が母方の名を名乗っているから。曲輪が幼い頃両親は離婚している。そんな様々な「怨み」が募って今回このようなことになったのかもしれない。もしも党の議員の接触があったとしたら、曲輪の細かい事情もわかっている者が接触したのだろう。
「いくら武闘派と呼ばれる党内部の人間でも誘拐しろとは言わないと思います。誰がそれを提案したのか?さっきも言いましたが彼らだけではこんな大胆なことはしないと思うんです」
篠原はそう言ったが、案外と相手は限定できるのではないか?と直井は思った。
ある程度政界に顔が利いて、そして事務所の事情にも詳しい。
「舟川専務は?」
「まさか。私に相談してきたんですよ」
篠原が答える。
「篠原さんに頼めば未遂で済むと思っての相談だったんじゃないでしょうか?大下元総理にも迷惑のかからない方法を取ってくれる。そう思ったのではないですか?」
「党の人間と繋がっていたのは舟川さんだとでも?」
「実は僕あんまり事務所の中の人と接点がないんですよ。舟川専務とは社長の誕生会でしか会ったことがなくて、どんな人かよくわからないんですが、先輩たちの事件の後始末とか見てると、かなりのキレものなんじゃないかな?と」
直井広道は事務所内において、いい意味で孤高の存在だった。
大所帯の事務所である。密かにトップタレント同士の中でも派閥があり、それに付くスタッフらも、お互いを牽制し合っているという話を篠原も聞いたことがある。その中で直井の所属しているグループと直の後輩グループはいわば社長預かり的なポジション。そして事務所の稼ぎ頭である。事務所のトップ=業界のトップと言っても過言ではない。その中でも直井の存在は異色だった。20代ですでに業界トップの出演料で交渉でき、視聴率もついてくる。40代になった今でも「アイドル」の肩書きを失うこともない。
それまで少し前屈みで話をしていた直井はソファの背もたれに寄りかかるようにした。
「社長とチーフと僕付きのマネージャー以外の連絡先知らないんですよ」
逆にそれだけで十分に仕事がまわるというのだ。
篠原は「そうなんですか?」と相槌のように口にした。タレントはデビュー前の研修生を含めると300人近くいる。スタッフもそれなりの人数を抱えている事務所の中で、3人の連絡先しか知らないというのはどうなのだろう?と篠原は思った。逆に彼ほどのステイタスまで登り詰めると、雑多なことには関わっていられないのかもしれない。自分の仕事をしっかりとこなしていくことが彼にとっての最重要課題だ。
「事務所自体にも滅多に行かないから、事務所の体制とかよくわからないんですが、篠原さんはうちの事務所の事情はご存知ですか?」
「そうですね。おそらく直井さんより少しだけ詳しい。ほんの少しですが」
そのほとんどの知識は今回の件が発生してからの付け焼き刃の知識だった。しかし、直井が本当に事務所内部との接点がそれしかないというなら、まだ篠原の方が事情に詳しいかもしれない。
「舟川専務がどういう形で事務所に来たのかも知らないんです。僕が事務所に入った頃はまだ事務所の人間ではなかった人だというのはわかってますけどね」
直井はいたずらっ子のような顔をした。
誰がどのように繋がっていて、たまたま利害の一致で今回の誘拐事件は起きたが、結局誰も目的を達成していない。それどころか、この事件を大下がうまく利用して、皆が納得できる形で政界の引退を目論んでいる。
「こういうのって、やっぱり頭のいい人が勝つんですよね」
直井は自分の身に起きていることなのに、すっかり他人事として話している。
「先程の身代金要求のFAX。大下先生はおそらく党の方にも連絡しているんでしょうね」と直井が言うと「でしょうね。きっと党本部は今頃大騒ぎでしょう」と篠原は苦笑した。そして篠原もソファにもたれた。
「こうなっては私たちも何もできません。連絡を待つだけです」
篠原の膝の間で組まれた手の指が落ち着きなく動く。
「本来の篠原さんたちのシナリオはどんなものだったんです?」
直井が訊ねると篠原は「コーヒーでも飲みましょう」と言って、ドアの近くに立っていた坂本にコーヒーを頼んだ。
篠原は大下の第一秘書にも相談を受けていたのだという。
大下の党総裁再登板を何とか阻止できないか?という内容だった。
大下は二度目の総理大臣の任期満了時にすでに政界引退を考えていたが、党内から、「あと4年」と頭を下げられ、引退を留まった。あと4年の期限まで残り1年と少し。ここに来て党総裁再登板を打診されても、大下が頷くわけがなかった。党内からは次の選挙にも出てほしいとも言われている。地元選挙区の後任候補が決まらないでいたことが理由の一つだった。
「秘書さんは選挙に立たないんですか?」
坂本が用意したコーヒーの香りが部屋に漂う。
「えぇ。本人が政治家というタイプではない、と言ってるようなんです。地元後任が決まったら、その人を当選させて、大下先生の引退と共に自分も政治家の秘書という仕事も辞めるつもりだとも」
「へぇ。年齢は?」
「直井さんよりも5、6歳下のはずです」
「それはお若い。私設秘書の方もお若いんですか?」
「そうですね。直井さんくらいかと」
「その方も大下代議士の後任になることはないんですか?」
「まぁ、粕谷さんは私設秘書といっても、政治家の周りにある面倒なことの後始末を専門としてますから」
秘書というのは他所向きの名称だということだろう。
「大下先生が本気で直井さんを後任にと思っているのか?私個人の意見としてはそれも怪しいと思っているんです」
直井はうんうんと頷いた。
「俺、レギュラー番組5本あるんですよ。簡単に辞められないです」
「ですよね」
篠原はコーヒーを口に運んだ。
「篠原さんは大下先生の顧問弁護士なんですか?」
「正しくは私の所属している事務所が…になります」
「でも、秘書さん、粕谷さんとは仲がいい?」
「同郷でしてね。彼の従兄と小中学時代同級生だったんです」
「世間は狭いですね」
「本当に」
第一秘書からも党内のゴタゴタに巻き込まれているこの状況の相談を受けていたが、粕谷からはそれが直井にまで及びそうだから、何とかできないか?と相談をうけた。
「以前、直井さんの番組に大下先生がお出になった際、小野田社長に直井さんとの関係を先生がお話したらしいのです。『もしも彼が私の後継者になるとなったら問題はあるか?』と社長に訊ねたと」
それはいつのことだろう?と直井は思った。最後に番組に出てもらったのは総理就任してすぐのこと。それも、一度目の就任の時だった。
「10年近く前の話ですよ」
「えぇ。小野田社長は直井さんが芸能界を辞めるとなっても応援はするつもりだが、本人は辞める気はないと思うと大下先生に話していたそうで、大下先生も『そうでしょうね』と話していたと」
そんな前から小野田が自分と大下代議士との関係を知っていても、それを微塵にも出していないことに直井は驚いた。
大下と小野田が直接会って話をしたのは一度きりだが、関係が途切れていたわけではないと篠原は言った。
「舟川さんは知っていたのかなぁ?」
直井は独り言のように呟いた。
「ご存知だったようです」篠原が応える。
そして「どのタイミングで知ったのかはわからない」と付け足した。
舟川は以前は小野田の事務所の顧問弁護士だった。今でも弁護士であるが小野田の会社の役員になっている。
きっかけは曲輪の起こした事件だった。
起訴されずに済んだが危うく刑事事件となった事件の後始末をして、役員として迎え入れられた。
「もしも舟川専務が仕掛けたとしたら、どういう意図があったのか?」
「それは小野田社長に曲輪さんに見切りをつけてもらいたいからでしょうね」
篠原は半分ほど飲んだコーヒーにミルクを入れるとクルクルとかき混ぜた。
「本当に直井さんを誘拐したり、身代金を要求したりするような人だったら、さっさと事務所を辞めさせた方がいい、と進言するつもりだったのでしょう」
誘拐の段取りなどには舟川は本当にノータッチなのかはわからない。曲輪らに何を話したのかもわからない。ただ「社長の息子」だということをオープンにできないにしろ、その事情を知っている者たちに曲輪が父の名前を出して無理強いをさせていたことを舟川は知っていたのだと篠原は言う。
「ところで事務所内では曲輪さんが小野田社長と親子だということはどの程度知られているのですか?」
これまで篠原は直井がそのことを知っていて当然だという体で話をしていた。
「僕たち以前にデビューした先輩たちはみんな知っているんじゃないですかね?」
メジャーデビューこそ曲輪たちが表舞台から去った後だったが、直井たちは曲輪たちのライブなどに参加していた。その時、曲輪が「御曹司」と周りに呼ばれていたのを覚えている。
しかし、曲輪はタレントたちとの接点がない。おそらく小野田や舟川の采配だろう。それに現在、事務所には直井の先輩といえるタレントは10人もいない。誰も曲輪の存在を気にしてはいない。
そもそも、事件後も小野田と曲輪の関係をマスコミが報じることはなかった。それは小野田の力であり、舟川がさまざま手を回した結果だった。
「僕たちより下の子は、曲輪さんたちと関わることはなかったし、最近の若い子は曲輪さんたちの活躍も、事件も知らない子ばかりですからね」
あくまでも曲輪は事務所の総務部長なのだと直井は言った。
篠原はコーヒーを飲み干すと、ふうと溜息をついた。
「大下先生の方も私たちからどうこうするわけにはいきませんし、全ては外からの連絡待ちになります」
篠原のスマホに着信があった。
「失礼」
篠原はそう言って電話に出た。
「あぁ、よかった。お持ちして」
それだけ言うと通話が終わった。
「スマホ、お返しできそうです。アプリではなくてチップが入っていたようです。直井さんのスマホはほとんどアプリを入れてらっしゃらないんですね」
「まぁ、電話とショートメールしか使いませんからね。実際こうしてお預けしていてもほとんど不便していない」
坂本が直井のスマホを持って現れた。直井はスマホを受け取った。
「ところで僕はいつまでこうしていなくちゃいけないんですか?」
直井は明日には収録がある。
「最悪、明日の始発の新幹線になってしまうかもしれません」篠原が言う。
「曲輪さんの所在がつかめないうちは難しいです」
今回の事件の関係者で唯一悪意を持って動いているのは曲輪だった。今、その悪意がどの方向を向いているのかわからない。彼が本来その矛先を向けているのは父親である小野田。しかし、誘拐が失敗したことで、それを持ちかけた舟川や、自分が動かなかったことで誘拐し損ねた直井の行方を追っているかもしれない。
曲輪がここに来る可能性は低い。ここが安全であることには違いない。
「大下先生の動きも気になります」篠原は言う。
「大下先生の状況がわかると目安もつくんですけどね」
きっと下の事務所では情報収集に追われていることだろう。
「昼食は美味しいものをご用意できそうなので期待していてください」
「じゃあ、期待して待つことにします」
直井は笑って応えた。

昼食は寿司だった。
朝、篠原が帰ったあと軽い朝食を済ますと、直井は改めてシャワーを使い、身支度を整えた。いつ帰れるようになってもいいようにと思ってのことだったが、あまり期待はしていなかった。
そうこうしているうちに昼になり、坂本が寿司桶を持って登場した時は、正直驚いた。
「地元の港に揚ったものなので新鮮です」
「篠原さんが言ったとおり、美味しい昼食にありつけて何よりだ」
直井はきれいに平らげ上機嫌だった。
午後2時を過ぎた頃、再び篠原がやってきた。
「お昼のお寿司、美味しかったです。ありがとうございます」
直井が礼を言うと篠原は「気に入ってもらえてなによりです」と言って笑顔を見せた。
地元の人間である坂本のおすすめの寿司屋だったという。坂本は大下と同じ党派の地元代議士の事務所付きの秘書なのだと篠原が言う。
「お若いのに秘書さんねぇ。大下先生の第一秘書さんも30代でしたよね」
「若い人に頑張ってもらわないと、政界が時代遅れの老人ホームになりますからね」
「いいんですか?そんなことを言って」
直井の言葉に篠原がふふふと笑った。
「その大下先生の秘書さんから連絡がありました」
やはりあの脅迫状は大下が作成したものだったらしい。そしてそれは外には出ていないとのことだった。
「誘拐がマスコミに知れるようになったら出すつもりだったらしいです。直井さんとの関係も一気に」
「それは怖いな」
そこで直井は気がついた。
「出すつもりだった…とおっしゃいましたよね?もう出す必要がなくなったのですか?」
「直井さんは今日はオフでここにいることを事務所が把握していますから」
直井は「やれやれ」という表情を浮かべる。
「ここの持ち主である先生も大下先生に礼を言われて驚いています。一応、大下先生は直井さんの大ファンということになってますけど、大下先生直々の電話で慌てていると坂本くんが言ってました」
現状については、私設秘書の粕谷は全てを知っていたが、大下にまで話を通していなかった。やはり主犯格の曲輪の所在、そして、曲輪と接触があったと思われる人物の特定ができないうちはと思っていたが、逆に大下が暴走しそうになったので慌てて直井の無事と所在を伝えたのだという。
「ソウさん、曲輪さんとはまだ連絡取れてないんですか?」
「彼がいそうな場所、わかりませんよね」
篠原が逆に訊ねる。
「実は、誘拐を企んでいるのを舟川さんは間接的に知ったらしいのです。そして、直井さんのおっしゃってたように、本当に実行する気なのかを見届けていた」
「間接的って誰かから聞いたとか」
篠原が出した名前は、以前事務所に所属していた曲輪と同じグループのメンバーだった。
その人物は今、とある若手国会議員の秘書をしていた。
「そこで繋がったんですか」
「そのようです」篠原は頷いた。
「議員の方はいずれ別の形で責任を取ってもらうことになると思いますが、事件とならない以上はすぐにはどうにもなりません」
「曲輪さんのひとり損になるんですかね?」
篠原はふと午前中での直井との会話を思い出した。
「曲輪さんは事務所にはいれない、とお思いですか?」
「ソウさんのプライドが許さないでしょう」
直井は寂しそうに言った。
「ここを訪ねてもらえません?もしも今もソウさんが所有していたら、ソウさんはここにいると思うんです」
タブレットに映っていたのは古い別荘で、住所は箱根だった。
「若い時に何度か連れて行ってもらったことがあるんです。ソウさんが自分のお金で買った初めての物件なんだって」
曲輪がアイドルとして活躍していた頃のことだった。
「最近の情報にはプライバシーも何もあったもんじゃないですよね」
そう言った直井の顔は無理に笑っているように篠原には映った。

それから2時間後、直井は篠原から新幹線のチケットを受け取っていた。
「遅い時間で申し訳ありません。あまり人目に付かない方がいいかと思いまして」篠原が言う。
「駅までは送らせます。その者たちは今回の件は全く知りません。直井さんのことも気が付かなければ知らないまま、という形になります」
「気を使わせて申し訳ありません」
直井の予想通り、曲輪は箱根の別荘にいた。
曲輪はスマホを自宅に置いたまま、タクシーか何かでその別荘に行ったようで、別荘には一見すると誰もいないように思えた。少し強引なやり方で中に入ると、ベッドに横たわる曲輪がいた。曲輪は多量の睡眠薬を飲んでいるようで、病院に運ばれた。結果、死に至らずに済んだ。
「曲輪さんからも話を伺わなければなりませんが…」
「それを必要としているのはあまりいないのではないですか?」
篠原の言葉に頷きながらも直井は言った。
「ソウさんが話したいと思った時にでも、僕が聞いておきますよ」
この部屋の窓は東を向いている。気の早い欠けた月が窓の外に見えた。