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知らないNの背中

新しいプロジェクトは敢えなく頓挫した。決してNがいないせいではない。自分たちを取り巻く環境が1年足らずでガラリと変わってしまったことが大きな要因だった。
それでも会社は新たな事業プロジェクトを展開していかなければならない。それが企業だ。
Nの死から2年近くが経過し、Nの背中を思い出すことも少なくなった頃、新しいプロジェクトチームの顔合わせがあった。
去年はあれほどリモートだなんだといっていたのに、顔合わせは本社の第二会議室で行うという。しかも金曜日の午後にだ。
みんなが席につく頃、ひとりだけリモート参加だという知らせが入った。
去年の暮れに合併したドイツ法人からの出向者で、日本に来たものの二週間の待機期間でホテルから出られないのだという。
「災難だよな」
昔からの仲間と苦笑するしかない。
顔合わせが始まったというのに、リモート参加者が映し出されるはずのスクリーンの不具合で顔がはっきり映らない。
「はじめまして」
その声にドキリとしたのは自分だけではなかった。
両隣の古株連中と顔を見合わせる。
「3日後にはそちらに行けると思います。よろしくお願いします」
お願いしますのあたりでようやく映し出された顔はNだった。
そのあとのことはよく覚えていない。
時々暗くなるスクリーンだけをひたすら見ていたような気がする。

月曜日。プロジェクトチームにあてがわれた新しい部屋に、荷物を運ぶ。両手で持てる程度の段ボールにひとつ。中には台車に箱を3つも積んでくる奴もいた。
部屋を開けると、もう来ている奴がいた。こちらに背を向け、デスクの横で何かしていた。
ドキリとした。
「N…」
思わず声が出た。
その瞬間、相手がこちらを見た。
スクリーンに映っていたあの顔だった。
「あぁ…はじめまして。木下さん」
見知った顔が見知らぬ風な挨拶をする。
「兄がいつもお世話になっていました」
「兄?」
彼はNの双子の弟だと言った。
N より少し髪が長めかもしれない。
「木下さん。帰りに少しお話ししていいですか?」
誘われるまま、彼が今しばらく滞在するホテルへ向かった。
本来、彼が住む予定だったマンションが手違いで空室がないのだという。代わりのマンションを総務が探しているという。
「別に僕は兄さんの住んでたところでも構わないんだけれども、少し遠いんですよね。土地勘がないから今はまだそこから通うのは難しいのかな?」
聞けばN住んでいた部屋は賃貸ではなかったようで、Nの死後はそのままになっているのだという。
「時々、義姉さんが空気の入れ替えとかしに行ってくれているようなんですが、僕はまだ行けてないんです」
彼ら双子の上にも兄がいて、その兄の妻がいろいろ管理してくれているのだという。
「行けてない?」
「兄さんの葬式の時に来ただけで、そのあとは日本に帰って来れてなくて」
仕方がない。このご時世だ。
「木下さんのことは兄さんからいつも聞いてました」
Nの声が、自分を「木下さん」と呼ぶ。Nはいつも「キノ」と読んでいた。Nと同じ声が、少し日本語のアクセントにズレのある言葉で話を続ける。
ホテルのラウンジも長居できず、今は、彼の部屋にいる。
「僕と兄は双子だけど、誕生日が違うんです。日付を跨いで生まれたもので」
「へぇ」
「日付だけじゃなく、星座も違うんです。兄が獅子座で僕は乙女座。男で乙女座ってなかなか言いにくいんですよね」
年齢だったら、自分の知るNより2歳年上だが、彼はNより若い印象だった。そう。一緒のチームで仕事をしていた頃のNにとても似ている。チーム解散以降の彼は、時折見かけるだけだったが、その度に少し疲れているようだった。
「中学生の頃、兄さんと賭けをしたんです」
「賭け?」
「僕らは一卵性の双子だけれども、まったく違う人生を歩いていけるか?夏休みの自由研究のように調べてみたくなったんです」
いつも飄々とみんなの先を行くNならばそういうことを言い出してもおかしくはない。ふたりのうちそれをどちらが言い出したのかわからないけども。
「そこで僕は中学を終わると同時にドイツに渡ったんです」
「なぜ、ドイツに?」
「祖父母がドイツにいたんです」
彼の祖母はドイツ人で、祖父は日本人ドイツ人のダブル。その娘が彼らの母で父親は日本人。少し目の色が薄いのと色が白いのはそういうわけだったのか?Nとは20年以上も一緒に働いてきたのにそういったことを何も知らなかった。目の前にいるNの弟のことも一言も話題に出たことはなかった。
「大学を出て、向こうのコンピュータソフト開発の会社に勤めました。エンジニアとして。兄さんはご存知のように日本で、この会社で企画部で仕事をしてました。それは僕よりも木下さんの方がご存知でしょう?」
黙って頷いた。
「仕事をするようになってしばらくした頃、僕はふと気が付いたんです。僕は女性に興味がないと。だからって男の人が好きかと言われても少し違う」
「少し?」
彼は天井を見上げ、ゆっくり首を傾げ、俯いた。
「性的なものに興味がない。セックスとかね。そういったものに興味がわかないし、そういう自然現象もない。その代わり女性のように気持ちや体調に波を感じることがあって、検査ついでに調べてもらったんです」
「何を?」
「遺伝子を。向こうだと割と普通に調べてもらえる」
「そうなんだ」
自分は持ち込んだ缶チューハイを一口飲んだ。もう味はわからない。ただ喉がひどく渇いていた。本当は酒でない方がいいことはわかっている。でも今はそれしか飲むものがなかった。
「そしたら、遺伝子情報は女性だというんです」
「え?」
「驚くでしょう?」
彼も缶チューハイを一口飲んだ。
「見た目はまぁほとんど男。でも体の中を調べると、ほとんど仕事をしていない精巣と、ホルモンの分泌しかしていない卵巣がある。子宮はないし、乳腺は発達する気配もない」
上着を脱いでいる彼は、男性にしては線が細い。華奢な体型をしているのがよくわかる。
「僕がそうだということは、兄さんだって同じなんです。だから、僕はそのことを兄さんに直接伝えました」
「直接って、どうやって?」
「電話です」
当たり前でしょ?というように彼はこっちを見た。
睫毛が長く、綺麗な二重。鼻筋がとおり、程よい高さ。薄い唇は紅をさしたかのように赤い。全てはNのそのままの顔。自分の憧れたNの…あぁ、そういうことか、と納得した。
Nが女性ならば、自分が惹かれるのも当然だと。
いや、待て。自分の思考に躊躇する。
「兄さんもいろいろ合点がいくものがあったようだけど、あえて調べないと言ったんだ。もしも自分も女性だということになったら、日本では生きにくいから、と」
「向こうでは生きにくいとか感じることはないのか?」
「どうだろう?」
彼も酔っているのだろうか?「どうだろう?」などとまるで他人事だ。
「見た目がほぼ日本人で、日本国籍だという時点で、かなりのハンディキャップレースを歩んでいたからね。よくわからない」
と彼は…彼でいいのだろうか?
「うん。男のまま」
にっこり笑ってパスポートを見せた。
「お祖父様がそのままにしとけって」
その祖父は10年ほど前にドイツで亡くなったという。
「確かに、日本はそういうことに関してはひどく遅れているというか、理解ができていないからね。うん」
すっかり温くなった缶チューハイはちっとも美味しくなかった。
「それに、このプロジェクト終わったらドイツに戻るつもりだし。長くて2年でしたよね?」
「あぁ」
「向こうに帰ったら会社も辞めようと思っているんです」
「え?」
「病気なんですよ」
彼は、自分の頭を、右手の人差し指でコツコツと突いた。
「治療もできてますし、すぐどうこうなるというわけではないですが、このプロジェクトが終わったら余生を楽しむ段階に入ってもいいかな?と。いや、今ですら僕にとっては余生かもしれないですけどね」
そう言って笑う顔はひどくNに似ていた。
「実は木下さんにどうしても伝えたいことがあったんです」
と彼は言った。
「兄も、同じ病気だったんです」
「え?」
「先に病気に気がついたのはやっぱり僕で。仕事柄かずっと頭痛持ちだったんですが、どうしようもなく痛くってかかりつけ医が詳しく調べた方がいいと」
そうしてわかった病気は遺伝性があることもわかり、彼はNに連絡を入れた。
そういえばNも若い頃から頭痛持ちだった。薬の合う合わないを口にしていたのを思い出す。
「僕は治療が出来ていたけど、兄は薬を飲んでいるだけだった」
日本では出来ない手術をし、認められていない治療をしたのだと言う。
「ドイツでの治療をやはり兄は拒んだんです」
「どうして?」
「その頃、大事な仕事をしているのだと言っていました。あと」
そこで彼は一旦言葉を切った。
「万が一手術が失敗したら、視力を失うかもしれない。僕だって、左目はあんまり見えてないです。そういう手術のために木下さんのそばを離れたくない。そう言っていました」
「え?」
それはどう受け止めていいのだろう。
「僕にもいたんですよ。僕と一緒にいてくれる相手が」
「いた?」
「去年、死にました。例の感染症ですよ。彼は僕の主治医でした」
彼に遺伝子情報が女性だと告げ、そしてその後ずっとそばにいて、彼の病気にもそして兄であるNの死の際にもずっと彼を慰め励まして来てくれた相手を失った彼は、だから日本に来たのだと言った。
「木下さんだけが知らないのは狡いし、可哀想かなと思って」
「何を?」
「兄のことを」
あぁ、そうだ。自分はこんなにも長くNといたのに。目の前にいる双子の弟よりも長くいたというのに、Nのことは何も知らなかったのだ。
「木下さん」
彼が顔を覗き込むようにして言う。
「それは兄のための涙だと思っていいですか?」
彼に言われて初めて、自分が泣いていることに気がついた。
「ねぇ、木下さん。こうやって兄の話を聞いても、僕と一緒に仕事をしてくれますか?」
彼は「できるか?」とは訊かなかった。彼のポジションはNとは全く違うけれども、プロジェクトチームとしては深く関わらなければならない。
「一緒に仕事をさせてくれ」そう答えた。
再び、一緒にするはずだった2年前のプロジェクト。Nが何も言わずに始まる前に離脱していった。プロジェクトそのものも途中で頓挫し、様々な思いが中途半端に漂ったままだった。
「ありがとう。木下さん」
彼はそう言った彼の目にも涙が溜まっていたことに気がついた。
「あいつの部屋、マンションから会社までの最短ルートを、今度教えてあげるよ」
洟をすすり、涙を拭いて彼に言った。
「じゃあ、会社には新しい部屋を探さなくてもいいと言わなくちゃいけませんね」
彼も溢れそうだった涙を拭いて笑って見せた。
どこかでNが「こいつをよろしく」そう言っているような気がした。

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