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金魚と眠り

その人はいつも球形の金魚の水槽の前で膝を抱えて眠っている。
眠るには少し涼しいかもしれない。
最初に見た時は館長かと思った。とてもよく似ているけれども、館長と比べて雰囲気が柔らかいし、少し若い。

僕は少し風変わりな水族館に勤めている。勤めている?アルバイトだけど、このまま就職できればと思っている。
大学の海洋学部の学生の中から水族館に興味がある、就職希望の学生がこの水族館に紹介されアルバイトをする。魚の種類は少ないが、元々水族館用ではない建物の中に作った水族館、しかもひとつずつの水槽は大きい。そして、オーナー館長の注文はただひとつ。
「死体を客に見せてはいけない」
死なさないではない。生き物だから死ぬのは当然。だが、それを客に見せてはいけない。
「ここに来る人は、癒しを求めてくるのだからね」
主任が言っていた。
一昨年去年とアルバイトをしていた先輩がそのまま就職した。
アルバイト込みでスタッフは12人。規模の割にスタッフが多いのは管理が24時間体制だからである。
春休みで久しぶりに午前中のシフトに入った。
他はどうかわからないがこの水族館は、閉館してからがスタッフは忙しい。午前中は緊急事態に備えるだけで、あとは薬品や餌を持ってくる業者とのやり取りだけなので、館内カメラが映し出す映像をチェックするためのモニター群の前にいることが多い。

今日も来ている。
「今日も」とは言ったがここしばらくは来ていなかったようだ。
来るのは午前中が多い。平日の午前中はほとんど客もなく、今日も貸切状態だ。他に客がいてもここに来て30分ぐらい寝ている。
どうしてここで寝ているのだろう?
最初に見た時は僕も客として水族館に来ていた。
バイトを始めたばかりで、初めてのバイト料で水族館の年間パスポートを購入した。
学校が終わってから来ることが多いので、今のような長期休暇でもなければなかなか会えない。
会うとは少し違うか?直接会ったのは最初だけで、それ以降はこうしてモニター越しでしか会えてない。
館内の様子を映すカメラが各エリア毎に置かれている。
そして、水槽内を映すカメラにも、たまに映り込む。
水槽の中を覗く時、人は全く無防備だ。ましてや水中にあるカメラが映す顔である。
それなのにどこか寂しそうな雰囲気を感じる。

その人は熱帯魚の水槽を眺めては青い魚を目で追っている。あれはコバルトドワーフグラミーだろう。先日新しく入った魚だった。たくさんの魚たちがいる中で新入りに気が付いたのだろうか?
そして、ゆっくりとクラゲの水槽の前を通っていく。
あぁ、やっぱり、館長に似ている。
でも館長のような鋭さを感じない。館長も人当たりはとても穏やかだし、見た目も年齢よりもだいぶ若く見える。でも、何ものにも屈しない強さを感じる。
目の前のこの人からは、思わず護りたく儚さを感じる。
よく似た二人だけど、館長が太陽ならこの人は月。館長が赤い炎なら、この人は青い水。
クラゲがふわふわと揺れるように、この人も薄青い光の中を歩いていく。
そして、いつもの金魚の水槽の前で、おそらくお気に入りなのだろう、すっぽりと体を包むシェル型の椅子に座る。靴を脱いで、膝を抱えて。
しばらくぼんやりと水槽を眺めている。かすかに微笑んでいるような、何も表情がないような…。

そして、いつの間にか眠ってしまう。
薄桃色の光がぼんやりと照らしている暗い部屋で。

ここに来る人はいい意味で他人に干渉しない。
顔見知りにでも会えば挨拶もするし、話もする。
でも、無理矢理感がないところがいい。
中には展示室を出てから声を掛けるというのもある。
ここにいる間は、「個の時間」であるということなのだろう。
大抵がひとりで訪れているのは、入場チケットが年間パスポートのみという理由だけではないはずだ。

あぁ…ほら。今日も膝を抱えてゆるゆると眠ってしまった。
風邪をひかないといいのだけれども。
今度、みんなで自由に使えるブランケットを置くことを提案しようか?
でも、この人は使わないような気がする。
「あれ?」
寝入って5分ぐらい経った頃、館長が現れた。
スタッフ専用の通路を通って来たのだろう。いつの間にか、かの人のそばに立っていた。
やっぱり似ている。
館長はいつも通りの白いシャツに青いジーンズ姿。白いシャツは時折袖を折っていることもあるが年中同じスタイル。
確かにここは温度が一定に保たれているが…あぁ、ジョブズもいつも同じスタイルだったな、とか思って無理矢理納得させたのは12月だった。
館長は寝ているかの人の前でこちらに背を向けるようにして立つと、スッと身を屈めて何かをしている。
そして立ち上がるとそっと眠る相手の頭を撫でるようにした。
「知り合いなんだ」
館長はそのままゆっくりとカメラの前から立ち去った。
「あ」
ブランケットが掛けられていた。
館長もどこかでこの様子を見ていたのだろうか?
業者とのやり取りを終えた先輩が戻ってきた。
先輩は一昨年この水族館に就職した先輩で、大学の卒業生でもある。
「何かあった?」
「いえ特に」
「通路で館長を見かけたからさ」
僕は少し考えてから先輩にモニターの様子を見せて「あの方が見えてたんです」と言った。
「あぁ、眠り姫ね」
先輩はそう言ってモニターに近付く。密かにそう呼ばれているのは知っていた。
「いつも館長に似ているなぁって思ってたんです」
「そりゃ、まぁ、従兄弟だからね」
「従兄弟ですか?随分と似てますよね」
「自分も最初は兄弟だと思ってたけど、苗字が違うなと思ったんだよな」
客の個人情報は飼育スタッフが知ることはないのにどうして知ったんだろう?
「え?おまえ、この人知らない?」先輩が驚いたように目を丸くした。
「えぇ」有名人なんだろうか?
「今度3年だっけ?」
「その予定です」話が飛ぶなぁと思いながら頷く。
「じゃあ、今年か?」
「え?」話が見えない。
「うちの大学の理工学部の教授だよ。ヨイヅキ教授。コンピューティングは海洋学部でも取らなきゃならない」
「え?」慌ててモニターを覗く。
「随分と若い教授ですね」ともすれば先輩ともあまり変わらなく見える。
「俺よか10歳上だと思ったな」
もう声が出ない。
「館長はそのまた2つ上だったはず」
「はぁ…」
僕はただモニターを見ているしかできなかった。

しばらくして教授は目を覚ますと、ブランケットに気がついてあたりをキョロキョロ見回しては鞄からスマホを取り出した。
おそらく、従兄である館長に連絡をしたのだろう。
少しして館長が来た。今度は普通に入口から入ってきた。
熱帯魚やクラゲの前を素通りして、金魚のコーナーに入る。
教授と並ぶと、似ているところと違う部分がはっきりとわかった。
見た目のパーツではなく佇まいが全く違う。
館長には常に余裕があるように見えた。
背も少し館長が大きい。細身だが、あの白いシャツの中にはきちんと筋肉が収められているような気がした。
教授は小さいというより華奢という言葉が合う。
館長は穏やかだがだからといってにこやかな雰囲気ではない人だ。その館長が優しく笑っている。思わず「わぁ」っと声が出た。
教授が丁寧に折り畳んだブランケットを館長に渡す。
館長はそれを受け取って何か言うと、教授は渋々というように頷いた。
仕草が幼いのだ、と思った。
ふたりは連れ立って歩き出した。

オウムガイの水槽の前で何やら話をしている。
生憎とカメラはふたりの背中しか映らない。
そしてふたりは展示室から出て行った。

「教授があそこで寝ちゃうから、金魚のチェックが特に厳しいんだ」
と先輩が言った。
ひょっとして館長は、あの従弟殿のために水族館を用意したのではないか?
「まさかね」
と打ち消しながらも、そうであってほしいと僕は思った。
そういうところで働くって、なんかいい。ここは優しい場所なのだ。
「丁寧に仕事をしなくちゃな」
金魚たちの餌を用意するため席を立った。

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