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黒い蝶

蝶が飛んでいる。黒い蝶だった。
「逆光で黒く見えていたんだよ」
誰かがそう言う。
蝶はひらひらと飛んでいる。1匹だったり2匹だったり。
「影を見てたんだよ」
誰かがいちいち訂正する。
誰なんだよ?
蝶を見ているのは僕なのに、僕のいうことが全て間違いだというのか?
ひどく腹が立つ。
「ほら、よくご覧よ。あの蝶を」
違う。僕の見ている蝶はそれではない。
「じゃあ、どの蝶を見ているというんだい?」
僕が見ている蝶は…ほら………あれ?いない。
どこを僕は見ていたんだろう?
僕は何を見ていたのだろう?
僕は………

「どうした?青藍」
ソファで眠っていた僕をお兄ちゃんが起こした。
「え?」
「首を振って苦しそうにしてたからさ」
「あ。うん」
僕は寝転んだまま兄さんの顔を見た。
「夢、見てた。嫌な夢」
「じゃあ、起こして正解?」
「うん」
「それはよかった」
お兄ちゃんはそう言って笑った。
「今日は風が涼しくて気持ちいいよ」
窓の外にはいつもの庭の木々と青い空が見えた。
高いところの雲が流れている。
ひらひらと黒い影が横切る。
僕は慌てて目を閉じた。

「どうした?青藍」
兄さんの声で目が覚めた。
「え?」
どうやらソファでうたた寝をしていたようだ。
「寝苦しそうにしていたからさ。ベッドに入って寝直すか?」
「ううん。大丈夫。多分、夢のせい」
「そうか」
「うん。あれ?」
兄さんがいるから、てっきり兄さんの家にいるものだと思っていたが、そこは自分の住む家のリビングだったことにようやく気づいた。
兄さんの家はビルの3階にあって、窓にはいつもカーテンが・・・昼間も薄いレースのカーテンが掛かっていて外が見えない。
僕の住む家のリビングの窓は広い庭に面していて、昼間は庭の景色を眺めるためにカーテンは開いている。
どこか子どもの頃に住んでいた家の庭に似ているような気がした。
「今日は風が涼しくてだいぶ過ごしやすい」
「え?」
びっくりして顔を見上げる僕を兄さんは不思議そうな顔で覗き込む。
「夢の中と同じことを言ってる」
「そうか?なかなかつまらないことしか言わないんだな」
兄さんは笑った。
「そんなんじゃないよ」
「悪い悪い。青藍を困らせたいわけじゃないんだ」
ポンポンと頭に手をやる。
「これは言っていたかな?」
「え?」
「今日は蝉がやたらと鳴いている」
「ううん。言ってない」
兄さんは「そうか」と言ってまた笑う。
「イギリスには蝉がいなかったからな」
そういえば、そうだったかもしれない。日本に帰ってきて、夏の蝉の声に驚いた覚えがある。今はもうすっかり慣れたけれども。
それにしても兄さんはどうしてイギリスの話をしたのだろう?子どもの頃は僕らはイギリスにいた。小さい頃の記憶はほとんどないけれど、僕の中のイギリスはあの家の庭がほとんどだった。
「イギリスは虫が少なかったよな。目立つのは蝶々ぐらい。あぁ、蛾も結構いたな」
兄さんは少し顔を顰めた。
「兄さん、蝶は嫌い?」
「虫は宇宙人だと思っている」
「何それ?」
そういえば子どもの頃、兄さんに虫取りに誘われたことはない。子ども時代のほとんどを、あまり昆虫のいないイギリスで過ごしたのも理由のひとつだと思っていた。
「蜻蛉とか蝉は羽が生える程度だし、甲虫類も元の姿に甲冑をつけた感じ。まぁ、脚は生えるけど。でも、蝶とか蛾の変態ぶりってどうよ?」
兄さんは思いっきり顔を顰める。
「もう。青藍は大人だから、こういうことを言っても泣かないと思うけど」
と、前置きしてから兄さんは言った。
「蛹の中身とか想像すると怖くないか?」
少し声をひそめるのが、本気で嫌がっているようでおかしかった。
「何、笑っているんだよ」
「ごめんなさい。兄さん。兄さんにも苦手なものがあるのだとわかったらなんか嬉しくなっちゃって」
「苦手なものはいろいろあるさ。それ以上に嫌いなものもあるし」
「そうだね」
「青藍は虫とか興味あるよな」
好きと言わないところが兄さんらしいと思った。
「蟻とかじっと見ていたし。昆虫図鑑見るのも好きだよな」
「うん。好き。自分と全く違うものだから、興味ある」
「蝶々とか見てたもんなぁ」
兄さんの言葉に少しドキリとした。
「ねぇ。黒い蝶って見たことある?」
「あるよ。こっちに来てからの方が真っ黒いの見るね。クロアゲハ?カラスアゲハ?綺麗だとは思うよ。でも、わざわざ目で追ったりはしないけどね」と言った。
「イギリスの蝶も綺麗だったけど、割と色が地味だったよなぁ。黒っぽいというか茶色っぽいというか」
「何だかんだ言って、兄さんもきちんと見てるじゃない」
「フィールドワークの授業でね」
あまりいい思い出がないのか、そう言うとまた少し眉間に皺を寄せた。

あの蝶は、夢の中だけの蝶なのだろうか?

漆黒の蝶がゆらゆら揺れるように飛ぶ。
一度見かけると、目を離すことが出来ずに、ずっとそれを追う。
「魂を持っていかれるよ」
その言葉にゾッとする。
「それとももう誰かの魂を運んでいるのかねぇ」
蛹の中に溶けているのは肉体と魂。
体が溶けてもそこに魂があり続けるのか?それとも他の魂が宿るのか?
「もうあれはこの世のものじゃないのかもしれないね」
誰かが言う。
「そんな怖いこと言わないで」
お兄ちゃんの声がした。
僕はハッとして、振り向いた。
怒った顔をしたお兄ちゃんが立っている。
僕は慌ててお兄ちゃんに抱きついた。
その人は「ごめんなさい」と言って立ち去った。
「僕はあの人嫌いだ」
お兄ちゃんが僕を抱きしめながら言った。
その人は黒い蝶のようにふらふらと揺れて遠ざかった。