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アンモナイトとポケットのキャンディ

青藍がイギリスに来て2ヶ月ほど経った頃、全く食事をしようしなかった青藍が、砂糖を入れて少し甘くしたミルクは口にするようになった。大きな変化だ。
点滴とすっかり痩せた青藍はもともと大きな目が目立ち、綺麗な赤色の唇にはほとんど色がなかった。
それでも自分で起きてトイレには行こうとする。この間までは十和部さんが1時間おきに抱いてトイレに連れて行ってたが、今は自分でベッドから降りようとする。でもうまくは降りれずに転がり落ちる。青藍のベッドはかなり低めで床はカーペットの上にさらにマットを敷いていた。
学校から戻ると青藍の部屋に行く。免疫力が下がっている青藍に会うためには外で着ていた服を着替え、手をきちんと洗い、うがいをしてマスクをつける。それまでは会うといっても大抵は眠っているし、起きていても名前を呼んでもほとんど反応がない。それでも会いたかった。青藍がいることを確認せずにはいられなかった。

ミルクを持って青藍の部屋に入る。
「青藍」
目を閉じていても、名前を呼ぶと瞼を開いた。
「ミルク、飲もうよ」
青藍は頷くようにゆっくりと瞬きをする。
サイドテーブルにカップを置くとゆっくりと青藍を起こす。そしてベッドに腰をかけ、青藍が僕に寄り掛かれるようにしてあげる。その時、青藍はホッと息を吐く。辛いのかと思って顔を覗くと、目を閉じて眠ってしまいそうな穏やかな表情をしている。
「青藍」
声をかけると目を開けて、身じろぐ。
ミルクの入ったカップを近付けると、自分で持とうとする。一度そのまま手を離したら、全然持っていられなくて全部溢してしまいそうになったから、青藍が飲んでいる間はずっと一緒にカップを持っている。
ほんのひと口ふた口だけどきちんと飲むのを見てホッとする。
「もういい」というようにカップから手を離す。
カップをサイドテーブルに戻して少しの間青藍の肩を抱きながら、僕が一方的に話をする。
そんな感じの毎日がしばらく続いている。
青藍がこのままだったらどうしようか?僕はとても心配だったし、ひどく焦っていた。
それは先日のお祖父様たちの話を聞いたからだ。
青藍の積極的な治療をやめるべきか?という話だった。
僕が学校に行っている間に何かしているのだろうか?
食事を取らない青藍に点滴をしている以外何もしていないと思っていたのに。それともその点滴をやめてしまうというのだろうか?そうしたら青藍はどうなるのか?
お祖父様が「もうしばらく様子を見る」と言っていた。
もうしばらくというのはどの程度だろうか?
わずかに肩にかかる重みが変わる。
「青藍、眠いの?」
続けて30分も起きていられない。
「ねぇ、青藍。青藍はもう僕と一緒にいてくれないの?僕は青藍と一緒がいい」
そう言いながら青藍の頭を撫でた。
その時、ゴゴゴっという音と共に地震が起きた。
イギリスに来て初めての地震だった。
思わずギュッと青藍を抱きしめた。
ほんの数秒だったと思う。サイドテーブルのカップもそのままというぐらいの地震だった。
「大丈夫だよ。青藍」
そう言って青藍を見た。
青藍が僕を見上げた。目がしっかりと僕を見ている。
そしてギュッと僕にしがみついていた。
「怖かった?青藍。でもね、ほら大丈夫だよ」
しがみつく手はそのままだった。
僕は嬉しくなった。青藍は僕を頼ってくれている。
僕は青藍の体を抱き上げて膝の上に乗せた。2歳しか違わないはずなのに青藍は本当に小さな子のように軽かった。
「大丈夫。僕がいるからね」
青藍がこくりと頷いた。久しぶりのきちんとした反応だった。
少しして天明先生が慌てて部屋に来た。
僕の膝の上で僕にしがみついている青藍を見て、一瞬驚いたような顔をしたけど「大丈夫だったか。よかった」と僕と青藍の頭を撫でて部屋を出ていった。
そこからまた少しずつ青藍の様子が変わっていった。
僕だけでなく、天明先生や十和部さん、お祖父様の声にも反応するようになり、言葉は出なくても意思表示をするようになった。
天明先生の話だと、まだ食べ物を消化できるだけに体力がないのだという。食べることで疲れてしまうから、無理に食べさせても戻してしまう。固形物はほとんど取らないがスープはよそった分は全部飲めるほどになった。
そういう状態だからあまり動き回ることもできないが、ベッドから降りて窓の近くに置いているソファにノアと座って外を見ていることも増えた。
もう学校に上がる年齢でも学校には行けそうもないから、天明先生が少しずつ勉強を教えていた。一回に起きていられる時間はそう長くないからこまめに勉強をしているようだった。
僕も以前のように絵本や図鑑を持って青藍の部屋に行く。少し行儀は悪いけれどもベッドの上で寝そべって図鑑を一緒に見たりもできるようになった。
ただ、青藍は笑わない。
イギリスに来る前、日本にいた頃も青藍が言葉を口にするまではだいぶかかった。一緒に暮らすようになって半年ぐらいは何も話さなかった。でも、言葉の出る前から青藍は笑っていた。声は出ていなかったがにっこりと微笑んでいた。一緒に暮らし始めるだいぶ前にお祖母様の家で会った頃は明瞭ではなかったが話をしていたし、コロコロとよく笑う子だった。
お祖父様たちの話を思い出す。
青藍はこのままで幸せになれるのだろうか?
青藍の体はここにあるけれども、ひょっとして、青藍の心はすでに死んでしまったのではないか?
「イヤだ」
僕は自分の考えを打ち消した。
青藍の心はきっと深い海の底にいるんだ。そう思っうことにした。
なくなったのではない。いつか、自分が見つけると思った。

学校の行事で博物館に行った。化石が展示されている博物館だった。下学年の子も一緒の見学で、青藍と同い年の子が恐竜の化石に驚いているのを見ると、少し寂しくなった。本当だったら青藍と一緒に来れたはずなのに。
青藍に何かお土産を買って帰ろうと思った。
青藍のお気に入りのノアに似ているマスコットもあった。ノアは獏だというが、そのマスコットは恐竜のマスコットだった。
化石もお土産として売られていた。
貝の化石、歯の化石、葉っぱの化石。琥珀もあった。
その中にアンモナイトの化石があった。大きさや形で値段は様々。
小さな、だけどアンモナイトの渦がきちんとわかる化石があった。2ペンス硬貨より少しだけ大きいだろう?それがきちんとした螺旋の模様を描いている。
「それは本物だよ。レプリカじゃないんだ」
じっと見ていたら売店の店員が僕に話しかけてきた。
金髪で緑の目をした、若い男性店員だった。
「発掘するとき裏を割ってしまったから安いんだけど、本物だよ」
「弟へのお土産なんです」
と何故か僕は言っていた。何故かすんなりと青藍のことを弟と言えた。
「病気で家から出れずにいる弟へのお土産を探していたんです」
「何の病気なんだ?」店員が訊ねる。
「わかりません。でも、何も言わないし、笑ってもくれない。前はよく笑う子だったのに」
それまで僕は青藍の今の状況を誰にも話したことがなかった。時々連絡をとっている日本の幼馴染にも、もちろんクラスメイトにも。
「それは可哀想に。治る見込みはあるのかい?」
店員は言った。
「わかりません」
「これを持っていきなよ」
そう言ったのは若い店員の後ろにいた初老の男性だった。
「館長!」
店員が驚いて声を上げた。
「何で館長がここに?」
「あぁ、新しい図表本が間違って売店に届けられたと聞いたから取りに来た」
館長の手には分厚い本があった。
「間違って売られたら大変だからね」館長はいった。
「それより、キミ」
僕を呼ぶ。
「これを持っていっておやり。あぁ、あとこれも」
館長はアンモナイトの化石と共に自分の上着のポケットに入っていたキャンディを2つ取り出した。
「甘いものは幸せな気持ちにさせてくれるよ」
「そうなんですか?」
「そうだとも。弟に幸せなことは案外とそのへんに転がっているよ、と教えておあげなさい」
僕は館長から化石とキャンディを受け取った。
店員が「そのままだとなんだから」と袋を寄越した。その袋にはノアに似たキャラクターがプリントされていた。

家に帰って着替えを済ませて青藍の部屋に向かう。この頃はマスクはしなくてもよくなっていた。
お土産と一緒に僕の本棚から古生物の図鑑を持って青藍の部屋に向かった。
「青藍」
部屋が無人でドキリとした。でも、窓にソファに寝そべっている青藍が映っているのが見えてホッとした。
青藍は寝ているわけではなさそうで、もそもそと起きあがろうとしていた。
僕はさっさとソファまで行くと起き上がったばかりの青藍の隣に座った。
「今日は博物館に行ってきたんだ」
青藍が僕をじっと見ている。
「博物館って知ってる?」と訊ねると首を横に振る。
「いろんなのがあるんだ。今日行った博物館には恐竜の化石があったよ」
そう言って古生物の図鑑を広げると、スッと僕にくっついてそれを見る。
「えっとね、これ」
プレシオサウルスを指して言う。
「海に住んでたんだって」
何度か一緒に見た図鑑だったが、自分の身近なところにかつていたと知ってから見るとでは違う感じがした。青藍も食い入るようにページを見ている。その図鑑は日本にいた頃からある本だった。
「すごいね。おにいちゃん」
以前の青藍の声を思い出す。
「あのね、アンモナイトの化石がその町で簡単に見つかるんだって」
アンモナイトのページを開く。
「アンモナイトも海に住んだよ」
アンモナイトの殻は実に様々な形をしている。
青藍がキュッとノアを握る。怖いのかなと思っていたがページを見ながらかすかに頷いているようだった。
「それでね青藍。青藍にお土産」
紙袋を開いたままの図鑑の上に置いた。
「中を見てごらん」
青藍がノアを膝の上に乗せ、そっと手を離す。そして紙袋に手を伸ばしそっと中を覗いて見る。
「出してごらん」
青藍は袋の中身をノアの上にあけた。
小さなアンモナイトの化石とバタースカッチキャンディがふたつ、ノアの上に転がった。化石は裏側が上を向いてしまいただの石ころにしか見えない。
「あのね。博物館の館長さんが青藍にって。僕が弟へのお土産を探していると言ったら、持っていっておやりって」
青藍が僕を見上げた。
「つい言っちゃったんだ。弟って」
そう言って頭を撫でた。
「ほら、これ、見てごらん」
青藍の小さな、骨の形がわかりそうな左手に化石を乗せる。もちろんきちんと渦を巻いているのがわかるように乗せた。
青藍は顔の近くに化石を寄せてまじまじと見ていた。そして、化石を持っていない右手でページを指した。
「そう。これ」
再び化石を顔に寄せじっと見ては、右手の指でそっとその螺旋を撫でる。
僕はその様子をじっと見ていた。
キュッと口を結び、真剣な表情でなぞっている。渦と共にある凹凸を何度も何度も指でなぞる。そして、ゆっくりと僕の顔を見上げた。
大きく開かれた目が潤んでいる。
僕は何故かすごく焦ってしまい、「青藍。キャンディ食べる?」と訊ねた。
「このキャンディ、博物館の館長のポケットにあったものを分けてくれたんだ。きっとね、館長のポケットにはまだ入っていると思う。大きなポケットだったんだ」
僕は紙包を開けながら少し早口でどうでもいいことを話し続けた。
「館長さんはきっと甘いものが好きなんだ。頭を使うと甘いものが欲しくなるっていうからね。青藍も甘いミルク好きだもんね。僕もね、勉強をしていると甘いの欲しくなる」
キャラメル色のバタースカッチを青藍の口元に寄せた。
「キャンディは噛まなくてもいいものだから食べれるよ」
当たり前のことだが、もうずっと固形物を食べていない青藍はキャンディのことも忘れているかもしれない、と思った。
小さく開いた口にキャンディを入れる。
青藍が驚いたように目を丸くした。
「どうしたの?青藍」
ノアの上にあるもうひとつのキャンディを取ると、青藍は僕に寄越した。
「これはお口の中のがなくなってからだよ。急いで飲み込んじゃダメだよ」
青藍は首を振る。そして、キャンディを僕の手に乗せた。
「僕にくれるの?」
青藍が頷いた。
「ありがとう」
青藍は早く食べてほしいのかキャンディを指差す。
「うん。待って、今紙を剥いてから」
包紙を解き、口に運ぶ。青藍はそれをじっとみている。
「いただきます」
と言ってキャンディを口の中に入れる。
甘いバタースカッチ。
「甘いね」と青藍に言うと「うん、うん」と頷いた。
「でも、美味しいね」と言ったら、再び「うん」と頷き、そしてふわりと笑った。かすかに口角が上がり、泣きそうに潤んでいた目が笑っている。
あぁ、ようやく青藍が帰ってきたと僕は思った。
少し乱暴に青藍を抱きしめる。青藍は少し身を捩ったが構わず抱きしめた。
「おかえり青藍。待ってたよ」
青藍の顔を見ると何のことかわからないというようにきょとんとしている。
キャンディが入っている頬を突く。青藍も僕の頬を突いた。
「うん。一緒だね」
そう言って笑うと、青藍もまた笑顔になった。

博物館のお土産袋とバタースカッチの包紙はずっと僕の宝物箱の中にある。
そしてアンモナイトの化石は、青藍のコレクションの特等席に鎮座している。
青藍は言葉を言えなかった頃の記憶をよく覚えておらず、少し混乱しているようだったが、「これは蒼月から初めてもらったお土産」と手にするたびに嬉しそうに語る。そして甘すぎるバタースカッチがたまに食べたくなるのも僕のせいだと言って笑う。
そのたびに僕は「おかえり青藍」と思うのだった。

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20220924 修正