見出し画像

さとう水

「水に砂糖を溶かすなんて普段する?」
「え?料理の時とかしない?」
「おまえする?」
そう言われて、たっぷり30秒考えて「しない」と答えた。
「純粋にさ、水に砂糖を溶かしたの理科の実験が最後だなぁ、と思って」
「何の実験だっけ?」
「砂糖水が電気を通すか通さないか」
「そんなのしたっけ?」
「したよ。塩水と砂糖水作ってどっちが電気を通すでしょうか?」
「え?小学校ん時?」
「中学だと思う」
「全然覚えてない。で、電気通すの?」
「塩水はね。砂糖水は通さない」
「あ、そういえば、海水に使っている時雷が近づいてきたら陸に上がれ、ってじいちゃん言ってた。でも何で?」
「何が?」
「塩水は電気を通すけど砂糖水は何で通さないの?」
「知らねぇよ。電解質がどうとかいってたけど」
「何それ?」
「知らねぇよ。知ってたら社会学部なんていねぇよ」

そう言われてみれば、とキッチンの調味料スペースを見る。
砂糖がない。
朝はパンとコーヒー。昼は学食。夜は家庭教師のバイト先で馳走になるか、作ってもそんなに手の込んだものは作らない。カレーを一気に作って冷凍しておくというのが自分の中で最大の手間をかけた料理だ。コーヒーには牛乳を入れるときはあっても砂糖は入れない。
「水以外にも溶かしたことないんじゃない?」
家のどこかに砂糖はないか?と探した。
ファストフードに行っても砂糖は断る。もしもらっても、一緒にいる相手に渡すかどうかして持ち帰ることはそうない。
でも、ひょっとしてどこかにあるんじゃないか?
小一時間たっぷりかけて、ついに砂糖は見つからなかった。
家庭教師のバイトに行く。
大学受験を控える男子高校生。自分と同じように文系国文学狙い。趣味は小説を書くこと。
「作家になりたいとかそういうのじゃないんです」
と照れたように笑う。
それでも彼の書く小説は面白い。少し前の、そう、眉村卓とかに似たショートショートを書く。
苦手とする古文を教えて、一緒に夕飯を食べる。
彼の母親はとても料理が上手い。自分の母はあんまり得意としてなかったから「お惣菜様さま」と言っていた。そんな母の得意な料理はカレー。母親直伝のカレーをほぼ10日に一度作る。
目の前のチキンカレーは僕の作るカレーとは全く別物で、美味しい。もうすっかり別の料理だった。
そして付け合わせの福神漬け。
「こちらも手作りなんですか?」
「新しいレシピを教えていただいたの。以前のよりも美味しいと思うんだけど、どう?」
ふたり揃って「美味しい」と答えたら、すごく嬉しそうに笑った。
「ふたりとも兄弟みたい。家庭教師が終了しても仲良くしてやってね」
「先生は学校卒業後どこか遠くに行く予定ですか?」
「地元に帰ろうかと考えているんです。公務員狙いで。でも、地元といってもT市、隣町です」
「じゃあ、会おうと思えば会えますね」
「先にミナトくんが僕の後輩になるから、学校でも会えるかも」
「絶対に合格します」
嬉しいような、なんともくすぐったい気持ちになって、福神漬けを口に入れた。
「この甘味はお砂糖なんですか?」
と彼の母親に訊く。
「そう。きび砂糖」
「きび砂糖?」
「あのね先生。うちには砂糖だけで4種類、お塩なんてびっくりするくらいあるんだよ」
「へぇ」
砂糖や塩の種類ってメーカーの違い以外にあるのだろうか?

「たくさん出来すぎちゃうのが問題なのよ」
とチキンカレーと福神漬けを分けてもらった。
自転車で5分。雨の日に歩いても15分の距離。
カレーを食べた後はコーヒーが飲みたくなる。
彼の家ではやはり手作りのラッシーを飲んだ。マンゴーラッシーだった。
やはりどうしてもコーヒーが飲みたい。家にもコーヒーはある。けど、コンビニのコーヒーを買うことにした。
カップを手渡され「お砂糖やミルクはあちらにありますから、ご自由にお取りください」とアナウンスされる。
「あ、砂糖」
シュガースティックを1本ポケットに入れた。
家に帰りカレーと福神漬けを冷蔵室に入れる。冷凍室には自分の作ったカレーがあと3食分はある。
明日は休日。自分のカレーとチキンカレーのどっちを昼にするか夜にするかという贅沢な悩みに浸りながらコーヒーを啜る。
「あ」
砂糖の存在を思い出す。
慌てて立ち上がって、上着のポケットからシュガースティックを取り出す。
「グラニュー糖。きび砂糖とは違うんだろうな」
1Kの部屋。キッチンに再び戻る。ガラスのコップに砂糖を入れる。サラサラと音を立てて砂糖が落ちる。
水道に浄水器が初めから付いているのは、アパートの築年数が古く水道管に少し問題があるからだとアパート管理会社の担当が話していた。
「その代わり、ミネラルウォーターを買わずとも、美味しいご飯も美味しいコーヒーも楽しむことができます」
と最後は通販CMのようなセリフで締めくくっていた。
水を飲むたび、コーヒーを淹れるたびにあの担当さんを思い出す。彼は去年、新規オープンの支店の支店長になったそうだ。
その美味しい水を砂糖の入ったコップに注ぐ。
砂糖は白く下に溜まったままだった。
カレースプーンでかき混ぜる。砂糖が水の中でくるくる渦を巻く。
砂糖の粒が見えているということは、まだ溶けていないということだ。
かき混ぜ続ける。
「いいんじゃない?」
灯りに透かして粒の見えなくなったそれに満足した。
満足したがこれをどうしたらいいか悩んだ。
電気が通るかどうかの実験に必要な道具などあるわけがない。
「まぁ、とりあえず飲む」
ひと口飲んだ。
「うわぁ」
薄い砂糖の味はなんとも微妙な味だった。
顔を顰めて、そのままシンクに流してしまおうかと思った。
「有効活用ない?」
スマホで検索したら「鉢植えに与える」というのがあった。植物も糖分を必要とするとある。
そっと、外に出る。
お隣の人が通路に出している鉢植えの土にそっと砂糖水をかけてそそくさと部屋に戻る。
悪いことではないはずなのに、妙にドキドキする。
「砂糖を水に溶かしてもいいことないな」
そう結論付けて、少しぬるくなったコーヒーを飲んだ。

ともかく、今度あいつに会ったら報告だ。