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【月の耳】#シロクマ文芸部

「月の耳はとてもわかりにくいんだよ」
渡邊医師はとても真面目くさった顔で答える。
小囃くんの隣には今日は小さな友人がいる。小囃くんはこの子がそれを信じてしまったらどうしようか?とも思ったが、小さな友人は本当に小さいから、渡邊医師の話などほとんど理解できないだろう?とも思った。
渡邊医師の医師仲間が時折連れてくる3歳くらいのセイちゃんは人形のように整った顔立ちのおとなしい男の子だった。
あまり口をきくことはないが、時折、小さな子どもにありがちな奇妙な質問をしてくる。
「つきのおみみはどこにあるの?」
セイちゃんを連れてきた医師は別室で探偵と話し込んでいる。
どうやらその医師仲間は探偵の依頼人でもあるようだ。と小囃少年は思っている。それも厄介な依頼なのだろう。渡邊医師を同席させないのを見て小囃少年は確信している。
セイちゃんの子守りは楽だ。
探偵の部屋にある図鑑を適当にチョイスして見せていると、じっと図鑑を見ていて面倒なことはない。セイちゃんの前に置かれた図鑑には「天体と気候」。選んだ理由は特になかった。開かれたページには惑星直列の説明がある。セイちゃんは文字が読めているとは思えない。絵を見ているだけでも図鑑を楽しめているようだった。
加えて今日は渡邊医師がいる。渡邊医師は子どもを扱うのが上手い。ちなみに渡邊医師は小児科医ではない。
「月の耳はクレーターに紛れているからな」
「へぇ」
小囃少年は相槌を打つ。渡邊医師がどこまで法螺を吹き続ける気なのか?内心茶化していた。
小囃少年も小さい頃は渡邊医師の出まかせによく騙された。少し大きくなってあれは嘘だったのだと知って渡邊医師を問い詰めたところで渡邊医師は「何の話だ?」と惚ける。実は本当に自分の言ったことなど忘れているのだ、と探偵に教えられた時は本当に驚いた。
「だから、彼はなんでも記録するんだ。忘れないように。忘れてもいいように、ね」
と探偵は言った。
「爬虫類の耳がどこにあるのか知っているかい?」
そう言われて小囃少年ははたと思った。そう言われてみれば爬虫類の耳はどこだろう?あの小さな頭の耳など気にしたことがない。鳥の耳は毛に隠れて見えないがちゃんと耳穴がある。
ふと、セイちゃんを見ると、小さな手が小さな耳を掴んでいる。
「鼓膜が表面に出ていて耳穴を塞いでいるんだ」
そう言いながら渡邊医師は自分の耳の下、首あたりを触った。
「月の耳も表面に鼓膜が出ていて穴を塞いでいる。でもやはり周りより少し凹んでいるんだ。それは一見するとクレーターに似ていてわかりづらい」
渡邊医師は自分の首の左右を摩る。
セイちゃんもいつしか耳から首に手が移動していた。
「月の左右、おんなじ場所にあるクレーター。それが月の耳だ」
「へぇ」
小囃少年は思わず普通に感心して声が出た。
ハッと我に返ったが、時すでに遅し。渡邊医師がニヤリと笑った。渡邊医師はかの有名なベルギー人探偵に似た髭を蓄えている。そのせいかニヤリとした笑顔はは本当に「ニヤリ」という印象を受ける。
「今度、月球儀を見ながら教えてあげよう」
セイちゃんが頷く。
「ダメダメ」
小囃少年が渡邊医師に手を伸ばして言う。
セイちゃんがキョトンとした顔で小囃少年を見上げる。
「あぁ、えーっと、ダメじゃなくて…月球儀なんてないじゃないですか」
「おや?探偵の部屋になかったかね?」
「記憶にないです」
「おや、そうかい。残念だ」
渡邊医師はちっとも残念そうではない口調で言った。
セイちゃんは耳の下、首を少しの間触っていたが、やがて図鑑のページをめくり始めた。
小囃少年はホッと息を吐いた。
渡邊医師はコーヒーを淹れるべく立ち上がった。

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