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とおとうみ

「とおとうみ」
初めて聞いた時にいいなと思った。
もとは「遠淡海」「とほつあはうみ」「とおつあわうみ」遠くにある淡水の海。海といっても湖だし、字のまんまだし。それはそれでいいけども「とおとうみ」いいなと思った。

「この間まではユカタンビワハゴロモじゃなかった?」
「ビワハゴロモってそのまんまのネーミングだけど全然羽は羽衣じゃないよなぁって。琵琶に羽がついたような虫って酷すぎない?」
「まぁ、名前をつけるのはセンスだからね」
「僕が虫だったらセンスのある人に発見されたいなぁ」
「それは難しいね」

「スベスベマンジュウガニ」とか「トゲアリトゲナシトゲトゲ」とか見るとどうも近年の学者たちにはネーミングセンスがないというよりインパクト狙いのような気がした。

「それに遠江は昔からいいなと思ってたんだよ」
「俺は日暮里かな?好きな地名。日の暮れる里という字面もいいし、ニッポリの音がいい」
「昔からある地名っていいよね」
「意味を聞いてなるほど、字のまんまだと思うけどね」
「うん」
「そのまんまでも、昔の人の方がセンスいいという話になるかな?」

遠い近いは都からの距離。基準もきちんとしている。
名前をつけたのは都の役人なのだろうか?
古い地名の地図図鑑を眺める。
学者と役人とでは役人の方が言葉のセンスが良かったのかもしれない。何せ「文系」だ。

「短歌を作るのも当たり前だった時代だものなぁ。言葉のセンスがよくて当たり前かも」
「今の役人、政治家も短歌の前に失言多過ぎだしなぁ」
「新しい言葉を使えばいいと思ってるよね」
「意味もわからずね」
「でも、それって、みんなそういう感じだよね。残念だけど」

だから、図鑑とか事典とか、知らないことが載っている本が好き。
いろいろ知って、「へぇ」って感心して、好きになった言葉を使いたいから。
でも、「とおとうみ」のように口にすることのない言葉もある。
「とおとうみ」ここから遠い淡水の海を想像する。
決して見ることのない遠い海を。