見出し画像

電卓受難

事務所で向かい側に座っている佐川さんはすごく真面目で、本当にきちんとしている。経理事務はこういう人がやるべき、という見本になりそうな人だった。
事務所の中では古株で、名刺には「主任補」とあるが、おそらく、経理課の業務について佐川さんに訊いて解らないことはないと思う。
実際、何を聞いても、今のことでも過去のことでも、キチンと答えが返ってくる。
手書き文字もきれいというか、定規をあてたような文字で大きさも揃っている。
佐川さんの作るExcelの表もグラフも、誰が見ても「これ佐川さんが作ったでしょう?」と誰もが言う。全てがキチンと揃っている。
プライベートでは付き合いはないけれども、人当たりもいいし、気遣いもある。同僚としては悪くない人だと思っている。昔だったら「お局様」とか呼ばれるポジションかもしれないけれども、そういう陰口を言う人はいない。
でも、1日一緒にいて気になることがひとつだけある。
電卓を叩く音がすごい。
パソコンのテンキーもそこそこ強いような気がするし、エンターキーも気持ちよい「ターン」という音を響かせる。
でも、エンターキーは僕もつい強く叩いてしまうし、そういう人は多いと思う。
今も目の前で電卓を叩いているけれども、ついついその様子を覗き見たくなる。
瞬きもせず、ひたすら「ガツガツ」と凄まじいという言葉が似合う勢いで叩いている。そこだけ見ると「機嫌が悪い?」と思ってしまうほどである。
ガツガツガツガツ…
強い音が、ものすごいスピードで連打される。
うるさいとかそういうのではない。僕が感じるのは「電卓が可哀想」につきる。何故、そこまで叩かれなくてはならない?
電卓を叩く音が止み、佐川さんの顔がPC画面を見る。
以前聞いたけれども、Excelを信じていないから、電卓で一度叩いてみる、と。
「関数式を間違えているかもしれないでしょう?」
雛形を作っている時は「念には念を」なのだそうだ。
それはExcelで表を作成しながらも電卓で計算をする理由にはなるかもしれないが、歯を食いしばって(いるように見える)電卓を壊しそうな勢いで叩く理由にはならないと思う。
それにしても佐川さんの使う電卓は長持ちしないのではないか?
そう思っていたけど、ある日机の上に出ていた電卓を見たら、「+」のと「0」の文字の消えかかった少し大きめのかなり使い込まれた電卓だった。
文字の消えかかった電卓を思い出していたら「佐川さん」と課長の声が聞こえて、思わず自分も顔を上げてしまった。
「佐川さん、まるで親の仇のように電卓を叩くんだね。電卓、壊れない?」
課長はそう言って少し笑った。課長は50少し前。以前は営業のエースだったという話も聞く。佐川さんと歳も近い。みんなが言えないことを簡単に言ってくれた。しかし…
「親の仇って。課長、古いですね」
佐川さんもそう言って笑った。
「古いかな?最近、時代劇ないもんな」
そう言って手にしていたコーヒーを飲んだ。事務所内ではお茶もコーヒーも飲みたい人が飲みたい時に自分で淹れるルールだった。
「壊れないですよ。ただ、文字が消えちゃうのが他の人よりも速いかもしれませんが」
「どこのメーカー?自分もそのタフなのにしようかな?」
「課長、電卓どうかなさったんですか?」
「液晶が悪くなったようで、文字が見えにくいんだ」
「あらまぁ」
月半ばであまり忙しくないせいか、ふたりの会話は呑気なものである。
「10年くらいしか使ってないんだけどね」
10年?と驚いた。電卓って、毎日のように使っていてもそれだけ長持ちするんだ。
「あら、それは早いですね?」
早い?佐川さんの言葉に再び驚いた。
「佐川さん、それ、何年もの?」
「正しいのは忘れましたが、消費税が5%の頃のものです」
いつだ?自分は気がついたら消費税は8%だった。
「そんなに長い間、この電卓は佐川さんに親の仇のように叩かれ続けているんだ。可哀想に」
「課長」
佐川さんは苦笑するしかなさそうだった。
課長は再度、佐川さんの電卓のメーカーを確認した。
「C社?あれ?同じメーカーだ」
「機械には当たり外れありますから」
佐川さんが言う。
自分の電卓はよくわからないメーカーだった。ほとんどパソコンでの作業だからと、電卓は100円ショップで買ったものだった。使い始めて2年目で、課長の電卓同様文字が薄くなってきたのと、「4」の反応が悪いような気がする。
「似た形のを買わせてもらうよ。流石に同じのはもうないだろう」
課長はそう言うとコーヒーを持って自分の席に戻っていった。
再び佐川さんの電卓の音が響き出した。
自分も佐川さんの電卓と同じものを買おうかな?それだと、課長とお揃いになっちゃうかな?そんなことを考えながら、パソコンのキーボードを打ち始めた。