蝸牛2

蝸牛は奇妙な生き物だ。
お店の看板にくっついたまま蝸牛が死んでいる。いや、おそらく死んでいるのだろう。もう1週間以上も蝸牛は看板の「o」の文字の真ん中に居座ったままだ。
店の名前は「Morpheus」夢の神モルペウス。女装バーという名目の店だ。常時5人程度の「店の子」が客の相手をする。
カウンターには店の古参のカレンさんが、不慣れな新人をサポートしながら、常連たちの相手をしている。
カウンターに座っている客たちは、カレンさんに懺悔をするかのように、様々な聞いている側が困ってしまうような話までしてくる。でもカレンさんは「大変よね」とか「仕方ないわね」とその長い話を言葉少なで受け止める。カレンさんの言葉に客は黙って頷く。
店のナンバー1のアリスちゃんはまるで蝶のように客の間を飛び回る。お酒を取りにアリスちゃんが立ち上がると、どこかの席の客が声を掛ける。
「はーい。次はそちらに行きますよー」
明るく言って笑いかける。
自分は蝸牛だ。
自分から誰かのところに行くわけでもなし、誰かが自分のところに来るわけでもない。それでもこの店にいる。もう3年になる。

「スミレさん目当てのお客さん、結構いるよ」アリスちゃんが言う。
「スミレさん。高嶺の花だって」
「何言ってるんですか」
店に行く途中に偶然アリスちゃんに会った。いつもより早めに出て、マニキュアを買うつもりだった。アリスちゃんは今は金茶色に髪を染めている。オリーブ色のロングコートの裾をはためかせ、相変わらず大きな帆布のトートを肩に掛けている。
「崖の上に咲くスミレの花は手折りたくても届かない。どうせ届かないならみんなでそっと見守ろう」
「何それ?」
「お店の常連さんたちの紳士協定」
マニキュアを買うのにアリスちゃんが一緒に行くと言う。ならばいっそアリスちゃんのおすすめを紹介して欲しいと言ったら「いいよ」と案内してくれた。
「若い子とか100円ショップのとか使うけど、何が入っているかわからないのにね」
アリスちゃんは化粧品だけは気をつけているらしい。「だけは」とは本人が言ったが、私服のセンスもいいし、髪色もよく変えるけどどれもアリスちゃんに似合っている。
「だって直接肌につけるものじゃん」
「確かに」
「カレンさんに教えてもらった自然化粧品がいいんだ。素材に気を使っている割に安いし、色もね、いい感じ」
美大生であるアリスちゃんらしいなと思った。
マニキュアはとあるセレクトショップで売っているという。
「珍しいね」
「レディースのアクセの並びにあるんだけど、やっぱりこのがたいで普通の化粧品売り場に行くのって勇気いるじゃん」
アリスちゃんは180cmぐらい。今こうして見ていると、お店のアリスちゃんはどこにもいない。それでもひとたび衣装をつけ化粧をするとアリスちゃんになる。
「知り合いの店だし、色とかね、結構わがまま言って取り寄せてもらっちゃうし」
大きめの口の口角を上げる。そう、アリスちゃんは唇はそんなに厚くはないが口が大きい方だ。この口にピンクの口紅がのるとどうして愛らしい女の子の口になるのか不思議だった。
「あ、口紅もある。グロスもね。そういった小物はそこで買うの。基礎とかはきちんとしたのがいいけど、お店で映えるような色がないんだよね。カレンさんも時々そこに来るみたい」
「アリスちゃんとカレンさんが使っているなら間違いないね」
「スミレさんまで通ったらモルぺウス御用達になるね」
とアリスちゃんが笑った。

「凪」という名前のショップだった。
建物自体は随分と昔からあるから知っていたが、大通りに面していない裏側から入る水族館にしか来たことがない。年間パスポートの更新にショップの隣にある薬局には年に一度来ることはあったが、隣がセレクトショップだなんて気が付かなかった。
「そうなんだよ。看板出せって言ってるんだよ。それなのにこれだよ」
通りに面した入口のドアに「凪」とペイントされた木製のプレートがぶら下がっている。
窓もあって店内が見える。窓辺には可愛い小物や人形がディスプレイされているが、薬局側から来るとほとんど何も見えない。
「あれ?」
窓に蝸牛がくっついていた。
「どうしたの?スミレさん」
「蝸牛」
アリスちゃんはグッと蝸牛に顔を寄せた。
「死んでるね。多分」
「え?」
アリスちゃんはそのままドアを開けた。
ユーズドアメリカンを主に扱う店だというそこは、何というかとても居心地がよかった。思っていたよりも店内が広いというのもあるが、程よく雑然とした雰囲気にホッとする。中古のセレクトショップはどうしても店の中がごちゃついていて落ち着かないけど、ここは少し違う。
「慎吾くん珍しいね、誰かと一緒って」
声を掛けてきたのはアリスちゃんと同じくらいの年齢の男性で、おそらくここの店員だろう。
「お店で一緒のスミレさん。って、僕ばかり名前バレてるのズルくない?スミレさんって呼ぶのでいいの?」
「あ、構わないよ。スミレは苗字から取っているから」
菫野忍。と初めてアリスちゃんに名乗った。自分の本名はおそらくお店のマスターとカレンさんしか知らない。
「じゃあスミレさんで。でもシノブさんも合ってる。いいなぁ」
店員も「作家さんの名前っぽくっていいなぁ」なんて言ってくれるが、忍という名前はあまり好きではなかった。
「シンゴくんだって似合っているよ」
「ありがとう。でも、なんかスミレさんにはアリスちゃんって呼んでもらいたい。スミレさんのいうアリスちゃん好きです。あ、外で呼ぶの恥ずかしかったら慎吾ちゃんって呼んでほしい。多分、スミレさんにはちゃん付けされたいんだと思う」
「そういうのあるの?」店員が訊く。
「例えばさ、あんまり親しくない人に下の名前で呼ばれたくないとかない?」
「あぁ、あるある」店員が頷く。
「その延長。呼び捨てで呼ばれてもいい相手と嫌な相手。うちのボスたちに君付けされたら何かあるって勘繰っちゃうから、むしろ呼び捨てにしてくれって感じ」
そう言って肩をすくめるアリスちゃんを見て店員は笑う。
「そういえばこのビルの住人はみんな慎吾くんのこと呼び捨てだね。クリニックの由紀さんまで」
住人といっても実際に住んでいるにはオーナーだけらしい。
「あの人たちに君付けやちゃん付けされたら絶対何かあると思っちゃう」
「それは日頃の君の行いがものをいってるんだと思うよ」
そう言って店員が笑っていると、奥から犬の声がした。
「あ、そうだ。スミレさんは犬は平気?」
「大丈夫」
「ここの看板娘なんだけどね」
と話していたら、犬を抱いた細身の男性が奥から出てきた。犬の種類はよくわからないが、人懐っこそうな犬だった。
「慎吾、しばらくご無沙汰だったんじゃない?」
呼び捨てをするということはビルの住人、この店の店長なのだろう。
「ナギさんと違って忙しくしてるんだよ」
と嫌味を言っても、ナギさんと呼ばれた相手はニコニコと笑っているだけだった。
「今日は何?何も頼まれていないよね?」
「頼んじゃいないけど、マニキュアを見にきた」
アリスちゃんが言うとナギさんは「丁度良かった。新色、新色」と店の中程にあるレディースのアクセサリーのある場所に案内した。
「このブルーからピンクにかけてのが新色なんだ」
指さしたテーブルの上に並べられたマニキュアは色もキレイだったが瓶がとても可愛かった。
アリスちゃんと一緒に屈んでマニキュアの瓶を見た。
「あれ?慎吾。お友だち連れてきたの?」
ナギさんはようやくこちらの存在に気がついたようだ。自分は影が薄い自覚はある。
「うん。スミレさん」
アリスちゃんは短く答える。
「丁度、菫の青という色もあるよ」
少し赤みを感じる青。濃い色ではない。
ユーズドアメリカンがメインの店だが、このマニキュアは国産品だという。色には皆日本語で名前がついていた。空の青。水の青。紫陽花の青。
「これは乾くと光の加減で色が変わるんだ」
アリスちゃんが紫陽花の青を手に取って見ていると、ナギさんが説明する。
「だからそれは少しお値段高め」
そう言ってナギさんは笑った。
同じテーブルに蝸牛がいるのに気がついた。
「蝸牛」
思わず口にすると、ナギさんが「本物だよ」と言った。
直径2cmほどの蝸牛の殻だった。
「店の窓のガラスによく引っ付いているんだ。引っ付くのはいいんだけどそのまま死んじゃうらしくってね。ずーっとくっついている」
「今もあるよ」
「マジ?」
アリスちゃんとのやり取りに歳の差を感じない。でもおそらくナギさんの方が歳上だろう。
ナギさんは10日ほどその場にいたら「死んでいるかも」と蝸牛を剥がすのだという。
「きれいに取れるんだよ。それまで風が吹こうが雨が降ろうがくっついてたというのにさ」
ナギさんは蝸牛の殻を剥がすと水につけて洗ってみるのだという。
「たまにね、黒いカスみたいなのが出てくるけど、大抵何もないんだよね。体はどこへ行っちゃうんだろう?」
そういえば、自分の部屋にあった蝸牛もみんな中身はなくてもくっついていた。
「蝸牛はほとんどが水だから3日もすると水が蒸発してなくなるんだって」
「へぇ…誰に聞いたの?」
ナギさんの問いにアリスちゃんは「チッ」と舌打ちをした。
「どうしてナギさんは『すごいねぇ。なんでも知ってるんだねぇ』とかにならないの?」
「いやいやだって、キミがそういうのを調べるようなキャラじゃないって知ってるから」
「失礼な。ナギさんが僕の何を知っているっていうんだよ」
「ごめんごめん。でも、誰に聞いたの?」
「チェッ。青藍さんだよ」
「やっぱりねぇ」
ふたりのやり取りは見ていて楽しかった。
「前、スミレさんの蝸牛の殻の話をした時に図鑑読んだ話したでしょ?」
「あぁ…うん。コンクリートを食べる話。あれはインパクトあった。アリスちゃんってなんでも知ってるんだと思ったんだよね」
「ほら。スミレさんはそう思ってくれたんだ」
「ごめんごめん。でも間違っちゃいないだろう?」
ナギさんの「ごめんごめん」は枕詞のようだと思ったら笑ってしまった。
「図鑑を読んだのはホント。青藍さんが貸してくれたんだ。わざわざうちのボスに慎吾くんに渡してくれって持ってきたみたいでさ。嬉しいね」
アリスちゃんは蝸牛の殻に手を伸ばした。
「あれ?コーティングしてる?」
「よくわかったね」
ナギさんが細い目を見開きて言う。
「それこそマニキュアでね。大きくなるとそれなりに厚くなるかもしれないけど、蝸牛の殻って薄いからさ」
ナギさんは蝸牛を洗った後、殻を一つずつ仕切りのある箱に入れているという。その時に透明マニキュアでコーティングするのだという。
「折角残していった殻なんだから大事にしてあげようと思ってね。僕に見つけてもらいたくて、僕の店に来て死んでいったんだよ。きっと」
「ナギさんはロマンチストだねぇ」
アリスちゃんが言う。
「バカにしてるだろう?」
「してないって」
ふたりのやり取りを見て、また笑った。

マニキュアを買って「凪」を出た。
自分は「菫の青」と「水の青」そして透明マニキュアを買った。
アリスちゃんは「紫陽花の青」。
ドアまで見送ってくれたナギさんにアリスちゃんが「ほらここ」と窓が窓ガラスにくっついている蝸牛を指さした。
「多分、もう死んでいるよ」
それでもナギさんは10日間様子を見るという。それがナギさんのルールなのだ。
「また来てくださいね」
「えぇ、また来ます」
「似合いそうなもの準備しておきます」
人の良さそうな笑顔でナギさんは言った。
店までは裏道を通るととても近いことがわかった。
「案外と近いんだね。本当にショップに通いそう」
「いいんじゃない?ナギさん、スミレさんに惚れちゃったみたいだし」
「え?」
アリスちゃんは「ふふん」と笑った。
アリスちゃんは女装するだけでいわゆるノンケだが、自分は少し事情が違う。
「気に入った人の好みが不思議とナギさんにはわかるみたいで、次にスミレさんが凪の店に行く頃にはスミレさんの好きなのがお店にあると思うよ」
何も言えないでいるうちに、店に着いた。
店入っているビルの階段の乗り口に、ビル内の店を表示している内側から灯りのつく看板がある。
「ほらここ」
アリスちゃんが指さした。
「Morpheus」の「o」の真ん中の蝸牛。
気づいていたことを言うと「もう10日ぐらいかな」と言いながら、アリスちゃんはそっと蝸牛を剥がした。そして裏を覗いて、2、3度手のひらの上で振った。
「空っぽ」
そう言って自分に寄越した。
「透明マニキュアはこの子のためだったんだね」
1cmくらいの小さな蝸牛が残した殻。
「スミレさんに見つけてもらいたくてここに来たんだと思うよ」
アリスちゃんが言う。アリスちゃんの声はいつも優しい。
「スミレさんなら、ナギさんよりもキレイに塗ってあげられるよ。だって、僕らの方がマニキュアの扱い慣れているからね」
そう言ってアリスちゃんはいつものちょっと悪戯めいた、口角を上げる笑みを浮かべた。

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