インタビュー

500mlの水にスライスしたレモンを1枚とミントの葉っぱをひとつまみ入れる。寝る前にそれを冷蔵庫に入れておく。朝、起きた時から出掛けるまでにその500mlのレモン水を飲み干す。
ミキシタサナエが習慣付けているものだった。
「毎朝の日課は?」という質問に答えた。
インタビューというのは、どうしてこんなにくだらないことも聞くのだろうか?
ミキシタサナエは密かにため息をついた。そしてテーブルの上の冷めかかったコーヒーを飲んだ。
ミキシタサナエは画家というよりイラストレーターが正しいのだろう、と本人は思っている。美術雑誌で3年ぶりの個展の特集を組んでくれるという。その記事にするためのインタビューだった。相手は自分と同い年くらいの女性のライターだ。ボイスレコーダーをテーブルの上に置き、手書きのメモを取りながらインタビュー取材は続く。
先日受けた町のフリーペーパーのインタビューはこんなくだらないことは訊かなかったな。とぼんやり思った。まだ若い男性だった。地元の広告代理店の名刺を持っていた。インタビュアーの力量、いや、センスなのだろうか?
あの時も今もインタビューは自分のアトリエの中の雑務室で行った。
1LDKと呼んでもいい作りのアトリエは自宅敷地内にある。以前は祖母のいる離れだった。ミキシタサナエの父の母である祖母。一人暮らしをしていたが80歳になった時に、父が「そばにいた方がいい」といって呼んだ。当初は同居するつもりだったが、祖母は長年のひとりの気ままさを捨てるのはいやだと言って、その結果の離れだった。89歳で亡くなるまで、離れにいた。88歳で目がだいぶ見えなくなるまで食事の支度も自分でしていた。
89歳と3ヶ月と2日目に、「なんだか少し具合が悪い。どうしても起きていたくない」と朝食を運んだ父に言った。
多分このまま死んでしまうのだろう。ここで死にたいのはやまやまだけれども、ここでこのまま死んだら警察を呼んだりしなくてはならないから、先に救急車を呼んでくれないか?
布団の中から言う祖母の言葉に父は従った。
どんな時でも祖母の言うことに間違いはなかった。
程なく救急車が到着した。その時はまだ祖母は意識があり、救急隊員ともやり取りができた。救急車が動き出すと祖母は眠ってしまいそのまま二度と目を覚さなかった。
最後は病院のベッドだった。死因は老衰。
父も母も「こんな感じに死ねたらいい」と言っていた。そして今でも時々祖母のことを思い出しては「あんな風に死ねたらいいよね」と語っている。
祖母の寝室だった部屋で絵を描く。
細いペンで描き込んで、カラーインクでワンポイントの着色をする。それがミキシタサナエの画風である。主に風景画。何処かにありそうな、何処にでもありそうな町並みだったり、木々の重なる森だったりするけども、全てはミキシタサナエの頭の中で形成されるものだった。
「この町に住んでみたいですか?」
フリーペーパーのインタビュアーが訊ねる。
「あぁ…どうでしょう?考えたことなかったです」
言葉はそれしか出なかったけれども、ミキシタサナエにとってその問いは自分の描く風景を見つめ直させた。
思いつくままに描いてきた風景。これらの風景は何故ここに、自分の頭に出てきたのだろう?
いつからあの風景は自分の中にあったのだろう?
たくさんの風景にも思えるし、いつも同じところにも思える。
写真で見ているのとは違う。誰かの目を通した風景のように頭に浮かぶ。
絵を描くようになったきっかけは祖母だと思う。
祖母はいつも刺繍をしていた。祖母の生まれ故郷に伝わるという刺し子の紋様だった。麻の布に白い糸と紺色の糸で刺していく。さまざまな紋様を組み合わせて2枚として同じものを作らなかった。
祖母の作った作品は今でも母が大事に持っている。いくつかの作品は額装され、家に飾られている。
母は祖母にその刺繍を習っていた。
多分祖母が一番可愛がっていたのは母だったろう。
父と母は10歳歳が離れていて、祖母は末の息子の若い嫁を孫のように可愛がっていた。実際の孫のサナエたちよりもだ。
母は子どもたちを叱るといつも祖母の離れに行っていた。叱られた子どもが逃げ込むのではなかった。
祖母と母の刺した刺繍は増えていった。
同じようだが全く違う。母の作ったものは模様の集合でしかなかったのに対し、祖母の刺したものは紋様によって作られた風景のように思えた。
ミキシタサナエはその紋様の町に魅せられた。
それでも一緒に刺さなかったのは今でもわからない。ただ、自分はこうして絵を描く方が合っていると思う。
祖母の作り出す模様の町を自分なりに描いてみたいと思って描き始めたことをミキシタサナエは思い出した。
何処かにあるような、何処にも存在しないあの町は、おそらく祖母の見てきた風景なのだろう。
そんな話はまだ誰にもしていない。
あの若いインタビュアーが「この町はどこですか?」などと訊かずに「住みたいですか?」と言ったことが引っかかった。
彼がまるで絵の中の町を知っているかのように思えた。
「またお話を聞かせてください」
そう言って若いインタビュアーは帰っていった。
「作品を描く道具について伺ってよろしいでしょうか?」
目の前の女性インタビュアーが言う。
「えぇ」
ミキシタサナエは笑顔で頷く。
そしてさりげなく壁の時計を見る。
インタビュー終了予定まであと30分以上あった。
ミキシタサナエはすっかり冷めたコーヒーの手を伸ばした。