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獏の見る夢

「兄さんも一度胃カメラ飲んでみてよ」
「何度か経験あるよ」
「ウソ!」
「ホント。毎年健康診断してるからな。トップたるもの健康には気をつけないと」
「そうなの?」
検査を終えた青藍は文句が止まらない。心電図を3回計り直したとか、レントゲンとエコーをそれぞれ撮られたとか、ベッドの上で膝を抱えて座って口撃し続ける。最大の文句は胃カメラに向けられている。
「本来はバリウム検査だけど、バリウム飲むのよりも楽だからね」
「そうなの?」
「バリウム経験ない?」
「ない」
「昔に比べてだいぶ飲みやすくなったとかいうけど、あれは人が飲むもんじゃないよ」
「ツラいの?」
「加えて出すにも大変だ」
怪訝な顔をする。
「キチンと下剤を飲まないと詰まってしまうんだ」
「出すってそういうこと?」
「そういうこと。腸に詰まってしまう人もいて、人によってはバリウム検査できない人もいる。あと撮影中に乗り物酔いしちゃうとか。だから、バリウムをすっ飛ばしの胃カメラ検査を頼んだんだよ」
青藍は回転系が苦手だ。
「そんな体に悪いことしたら、みんな病気になるよ」
おそらく本気で言っている。自分もバリウム検査に関しては同感だ。
「工藤先生は上手だから痛くなかったろ?」
「鼻がツンとした」
「それは仕方がない」
何か堰が切れたかのように青藍が言葉を発する。
「ま、検査も終わったから、何か食べな。昼過ぎには警察も来る」
そう言った途端、今までの勢いが消え、まるでスイッチが切れたように項垂れた。
「何も話すことないのに」
「向こうが用があるんだろう?ひょっとしておまえを襲ったヤツがもう捕まったのかもしれない」
ギクリと肩が揺れる。
そして小刻みに震え出した。
失敗した。
「大丈夫。もう大丈夫」
背中を摩る。「うん。うん」と頷くが震えは収まらない。そういえば彼を持ってきていたのを忘れていた。
立ち上がって十和部に持ってきてもらった鞄を開けると、中から青藍の親友を取り出した。
「思い出させて悪かった」
そっとノアを隣に置く。気づいた青藍がそっと手を伸ばし自分の膝の上に乗せた。以前はもっと厚みのあったノアもすっかり綿がくたびれてしまった。
「ありがとう。兄さん」
青藍はノアに顔を埋めたまま言う。
「少し休んでからにしよう」
結局、安定剤を飲ませて眠らせる。
導入剤ではないので、警察が来たら起こせばよい。いや、本当はその前に起こして何か食べさせないと。おそらく昨日の昼から何も食べていないだろう。
そんなに怖かったんだろうか?
緋村の話だと、ひどく暴力を受けた様子はなさそうだが。
ふと、とある結論に辿り着いた。
「あのことを覚えているのか?」
そう。青藍は一度、誘拐されている。

「それも俺と間違えられての誘拐で、俺じゃないとわかった途端に殺されかけたんじゃトラウマにもなるさ」
青藍が検査を受けに行っているときだった。報告に来た緋村に言う。
昨日の青藍の様子が緋村は気になっていたようだ。
どちらかというと普段は感情をあまり表に出すことのない青藍が、救急隊員たちに押さえられても震え続け、自分では動けない状態だったという。
「学校の編入の関係で俺だけ先にイギリスに行っていて、まぁ、イギリスには見知った祖父の周りのスタッフがいて、俺は特に問題がなく過ごしてたんだ」
祖父は確かプライベートな理由で日本にもうしばらくいなくてはならなかったのだと思う。青藍は自分と祖父、執事の十和部と天明先生にしか懐いていなかった。イギリスに自分とふたりで先に出したところでイギリスのスタッフに青藍が馴染めないからと青藍も日本に残っていた。
「誘拐の実行犯が持っていた写真というのが青藍の年頃の時の俺の写真でね。しかもその時、祖父の周辺にいる子どもは青藍しかいない」
「それは不運だ」
不運はさらにあった。普段は屋敷から出ることのない青藍だったが、その2日前から祖父らと共にホテルに滞在していた。不運というか、その予定を踏まえての誘拐計画だったのだろう。ホテル滞在の理由は詳しくはわからないが祖父の「プライベートな理由」に関係してのことだったと思う。
今でも兄弟だと思われる自分たちだが、幼い頃は今よりも似ていた。自分の少し前の写真と目の前にいる青藍がおんなじ顔なのを嬉しく思っていた。
「同じ顔の子どもだからな。実行犯はあっさりと青藍を誘拐したんだ」
知らない人間に対しての青藍の警戒心は半端ない。それを誘拐したのだからかなり強引な状態だったのかもしれないし、平均よりも小さな体だったからあっさりと連れ去ったのかもしれない。
青藍は事件に関することを未だかつて口にしたことがない。
「実行犯は雇われた見知らぬ連中だったけど、そいつらを雇ったのが三日月の親戚でね」
「お祖父様、大激怒ってヤツ」
「そう」
何かしらの予感があったのか、それとも単純に屋敷の外で過ごすからなのか、青藍の服にGPSの発信機を仕込んでいた。おかげでホテルから消えた青藍の居所はすぐにわかった。
「ただ、すぐには助けに行かなかったんだ」
「出方をうかがうため?」
随分後になって祖父が語ったことだが、単純に営利誘拐だったら金を出そうと思っていたようだった。それっきりで縁を切る。それだけだった。
「ところが相手は自作自演。誘拐された俺を助けて、その見返りとしてグループの中心に取り入れてもらうという魂胆だった」
「姑息な」
「そういうヤツだから、お祖父様に嫌われて末端の会社を当てがわれていたんだよ。そして、そういうヤツほど自分を勘違いする」
「三日月にもそういう人がいるんだ」
「そういうヤツばかりだよ」
本当にそういう連中ばかりだ。
青藍を「不要の者」と言った者たちを自分は決して許さない。それは祖父も同じだったと思われる。もともと一族だからとグループに関係しようとする人間とは距離を置く感じだったが、自分にグループの総帥を譲る少し前に大々的な人事を行った。多くの三日月の血筋の者がグループから遠い独立した会社に移動になった。「自分の傘下にいるよりも一国一城の主になるのがいいだろう」そう皮肉めいたことを言っていた。
連れ攫われた青藍は、依頼主である祖父の甥に家にそのまま連れて行かれた。祖父の甥は最初は青藍を自分だと思ったらしい。しかし目を覚ました青藍が何も言わないのを不思議に思い、こともあろうことか十和部に俺の所在を確認した。十和部は「蒼月様は先週よりイギリスにご滞在です」と答えた。事実ではあるが、相手の反応を見るためにわざと言ったのだった。
「青藍だとわかった途端、この役立たずと実行犯だけでなく青藍までも罵って部屋に閉じ込めたらしい。実行犯はふたりだったらしいがひとりが青藍の首を絞めたらしい。だが、全く抵抗しない、泣きもしない青藍に怖くなって途中でやめた」
十和部に連絡をよこしたことで、相手の誘拐の対象が青藍でなかったことがわかった。
「たとえ誘拐してきたのが青藍だとわかっても身代金は要求して来るはずが、その後の連絡がない。これは目的は別にあるし、青藍の身も危ない」
祖父はそう判断し、信頼のおけるスタッフを甥の家に行かせた。警察の家宅捜査以上の人数と勢いで青藍を見つけ出し、救出した。
「助けられた青藍は帰ってきても泣きもしないし、何も話さない。ただ、いつも一緒のぬいぐるみを与えた時だけはギュッと抱きしめていたそうだ」
主犯であるその甥は一族の前でことの始終を明かされ、任されていた会社を取り上げられた。その後その甥が一族の集まる場所に来たことはない。実行犯だったふたりはどうなったかは自分は聞いていない。事件の一部始終を祖父たちに話をしたのは実行犯の彼らだった。
その後祖父と共にイギリスに来た青藍は、何も話さない、感情を見せない状態になっていた。
「うちに引き取られて来た時よりもひどい状態でね。食事もほとんどできない状態だった」
点滴の栄養で生きている状態。ほとんどをベッドの上で過ごす。
「生まれつき心臓が小さくてね。致命的ではないが風邪をひきやすかったりストレスには弱い体の上、心も脆い」
それは今も大して変わっていないのかもしれない。先ほど心臓外科の宇治川医師が「青藍くんの心臓には小柄なあの体ですら大き過ぎますね」と検査結果を持ってきた。
「一度脈が乱れると元に戻るのにも時間がかかるのはそういう理由もありますね」と宇治川医師は言った。
「致命的なものではないにしろ、心臓が丈夫なら助かるという場合もあります。その逆もあります。気をつけてあげてくださいね」
大人たちは何度かみんなで話をしていた。青藍を生かすことが正解なのか?と。日本から海部内医師も来た。青藍が大伯母と住んでいた時に一緒だった大伯母の主治医で、青藍を家に連れてきた人だった。当時は食事は一応できたがそれでも感情を出すことは少なく、そしてどこか現実とは違った世界を認識しているかのようだったと海部内医師は語った。
「青藍くんをこちらに戻すことができたらいいのでしょうが」
海部内医師は言った。
「長かったよ。俺がイギリスに行く前くらいに戻るのは2年近くかかった」
「でも、戻れたんだ」
「まぁな」
それでも初めて会った頃の屈託のない笑顔の青藍はもういないのだけれども。
もう一度目覚めた時、果たして青藍はここにいるだろうか?そう思うと背筋に冷たいものが走る。
「で?そっちは」
「動きはなし。なさすぎるくらいだ。昨日はホテルに待機させていた慎吾の話だと夕方6時半にはホテルにタクシーで戻ってきてそれきり。自分が戻ってからも誰とも会話もなし」
「会話がない?どこからも連絡が入っていないということか?」
調査を始めてからずっと、槻木沢は複数の相手と仕切りに連絡を取っては、ホテルに落ち着いていることなくあちこちに出掛けていた。
「ようやく連絡したのは朝食はルームサービス。部屋から一歩も出てこない」
「今は?」
「円山に頼んできた。あと、外崎氏から預かったものを持ってきた」
USBメモリを緋村から受け取る。この程度のデータは普段だったらクラウドでのやりとりをするところだがいかんせん病院にいるとネットの環境だけは最悪だった。
「日本語のレポート、ダウンロードしながら少し見たけど、ボリュームが違う感じがするんだよね。確かに外崎氏の言う通り日本語訳のは結構端折られているのかもしれない」
「なるほどね。まぁ、見ておくよ。何か裏データが載っているとしたら、本ではなくこっちのレポートだと思うんだけどね」
「じゃあ、槻木沢がわざわざ持ち込んだあの本は?」
「本の内容ではなく、本自体に何かあるんだろうね」
「なるほどね」緋村は頷いた。「スパイ容疑に関してはシロだと思っている?」と結論を訊ねてくる。
「加担していても深くは内容を理解していないと思っている。だから駐車場にいたのは槻木沢個人での理由だと思っている。単純に青藍に会いに。青藍に警戒されているのがわかってたんだろう?」
「青藍くんが襲われたのは?」
「わからない。警察の見解を聞いてからだな。もしも槻き沢と共謀しているのだったら、槻木沢の今の状況が納得できない」
槻木沢が青藍に危害を加えたというのなら筋書きは単純だったが、今回の件は複数のことが同時に起きているようで、一つずつ整理していかなくてはならない。
「ところでお祖父様が動いた件はどちらかと関係している?」
「あぁ…それもあったな。確認を取る暇がなくていた」
ついでに青藍の件を報告する暇もない。それはそれでいいことだけど。
「お祖父様が潰した企画っていうやつにウォールナッツが関わっていたみたいなんだけど」
「え?」
ウォールナッツは青藍の同居人も所属している。
「普通に入札してだけど。あそこはタジマチカラがいるからね。国の方が使いたがる」
「なるほどね。企画潰して悪いことしたな」
青藍の同居人を思い出す。誠実そうだけど、どこか肩の力の抜けた感じに好感を持っている。だが、青藍がこの状態では彼には任せられない。
「今は休んでいてくれ。警察の話と持ってきてもらった資料からとで今後の予定を決める」
「わかった」
緋村は「今回はおまえがすぐそばにいるから大丈夫だよ」と言って出て行った。
自分だけではない。今は青藍を必要としている人間がたくさんいる。そのことに青藍が気がついているといいのだけれども。

青藍を起こす。
何度も名前を呼び、頭を撫でる。
大の男を起こすそれではないが、ゆっくりと覚醒を促す。
瞼がゆっくりと開き、ぼんやりとこっちを見る。
「喉、渇いてないか?」
反応がない。
「ミルクセーキ、あるぞ」
青藍はゆっくりと瞬きをした。
「ゆめ?」
「ん?」
「ゆめのつづき?」
そう言うとノアをぎゅっと抱きしめた。ノアは獏なのだという。獏にしてはなかなか個性的なデザインだった。
「夢じゃないよ。十和部が用意してくれた」
「とわべさん?」
反応が薄い。
「起きれるか?午後には野々隅くんもくるぞ」
「ののすみ?」
「おまえが元気じゃないとお祖父様にも連絡しづらいし」
「おじいさま?」
「数日中に日本に来る予定だ。おまえがそんなんだとさっさと日本から連れ出されるぞ?それでいいのか?」
青藍は再び目を閉じた。
「寝るな。起きろ。俺はいつまでひとりでここにいなくちゃなんないんだ。いい加減おまえと話がしたいんだけど」
「なんのはなし?」
ぼんやりと目を開ける。
「水族館にダンゴウオを入れるかどうか」
「ダンゴウオ?」
「今日のMLBの予想とか」
青藍の目がこちらを見た。
「おまえと話したいことだらけだよ」
ゆっくりと青藍の頭を撫でた。
「ぼくも」
青藍がもそもそとノアで顔を隠しながら言う。
「僕も兄さんと話がしたい」
ノアに半分声は吸われていたがしっかりとそう言った。
ベッドのスイッチを入れて上体を起こす。少し驚いたのか、ノアを顔から退けると顔をこちらに向けた。
「食べながら話そう」
そう言うと青藍はこくりと頷いて柔らかい笑みを浮かべた。
「向こうで食べる」
ベッドから降りようとする青藍の手を取る。相変わらず冷たい手だった。自分の手を握る青藍の手に力が入った。
たったそれだけのことにホッとする自分がいた。