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帽子屋アリス

マッドハッターにスカウトされたアリスは帽子屋になった。
デザインも見事だし手先も器用だが何より採寸が完璧なのである。

「あのさぁ帽子屋」
「なんだい?帽子屋」
「そういうのいいから。どうせ突っ込んだところで『おまえも帽子屋だろう?』って言うんだろ?」
「じゃあ、なんだい?アリス」
「そのアリスで止めるのもやめてくれない?俺はアリストテレス」
「テレスはどこにいるんだ?」
「確かに俺は双子だけれども・・・いや、違う。そうじゃなくって」
「あんたらいっつもおんなじやり取りで飽きないか?」
『三月兎』のマスターがいつの間にか来ていた。
片眉を上げたマッドハッターが「何しに来た?」とぶっきらぼうに訊く。
「先日頼んだ帽子ができたと聞いたもんで」
「そうそう、白兎に伝言を頼んでいたんだ。今回は伝わるのがはやかったね」と言うアリストテレスに「たまたま昨日、城で会ったんだ」とマスターは答えた。

かの有名な不思議な国。少女アリスが訪れてからだいぶ月日が流れた。
流れた?
時の流れが一定方向だと誰が決めた?
今、あの城にいるのは誰だ?

「女王陛下主催のパーティーに行くなら服も帽子も靴も新調しないと」
『三月兎』のマスターが言う。
マスターもまたマッドハッターにスカウトされて、いつでもお茶を楽しめる『三月兎』という名のカフェを経営している。
アリストテレスが帽子屋に来る前からここにいるのは確かだけど、いったいいつからそこにいるのかわからない。

「すごいよアリス。一度でいいからこんな帽子を被ってみたいと思っていた」
マスターは鏡の前に立つといろんな角度で自分を見ている。
「さすがは私が見込んだだけのことはある」
マッドハッターも満足気に頷いた。
「気に入っていただけて何よりです」
「前にいたところだとこんな帽子を被ったら、みんなが白い目で見るよ」
シルクハットに羽飾りのついた帽子を揺らしてマスターは言う。
「前にいたところ?」
「どんなところだったんですか?」
マッドハッターとアリスが問うと、マスターは「うーんとねぇ…」と言ったきり、黙ってしまった。
「どうしたんですか?マスター?」とアリスが訊いても、マスターは黙ったまま首を傾げた。
「うーん。この頃、ここへ来る前のことをうまく思い出せないんだ」
「マスターも?」
「アリス、君もかい?」
アリスは頷く。
「そもそも僕の名前が本当にアリストテレスなのか自信がなくなる時があるんです。双子の弟も本当にいたのか?大切な弟のはずなのに。名前もぼんやりとしか思い出せない」
「私もだよ」とマスターは言うと「帽子屋は覚えているかい?」とマッドハッターに尋ねる。
「何を覚えているというんだ?」
「私の名前」
マッドハッターは笑った。
「三月兎のマスターだろう?そして君はアリス」
右手でマスターを左手でアリスを指差した。
「そうか・・・」
マスターは顎を撫でながらふんふんと何度か頷いた。
そしておもむろに胸ポケットから懐中時計を取り出すと「おや?お茶の時間だ」と呟いた。
「さぁさぁ、お茶の時間だ。今日は素敵な帽子のお礼にアリスには私がご馳走しよう」
にこやかな笑顔でマスターが言う。
「私にはご馳走はないのか?」
マッドハッターが不服そうに、マスターを見上げた。
「帽子屋から代金をもらったことがあるかい?」
マスターはそう言ってウインクした。

ふたりの後について、アリスは三月兎のドアをくぐった。
街の向こうの森の向こう、女王陛下の住む城が見えた。
「そういえば、女王陛下の帽子はまだ作ったことがないな。次に会うことがあったらどんな帽子がいいか訊かなくちゃ」
まだ見ぬ女王陛下の帽子で頭がいっぱいになる。
心のどこかで、何かが自分に問いかける。
「これが正解?」
アリスは閉まりかけのドアの向こうを振り返る。
「これが世界」
そう答えたのはアリスなのか?別の誰かなのか?
「さぁさ、席に座って。お茶に時間だ」
ドアが閉まる。

「此処が世界だ」

マッドハッターの呟きは、誰の耳にも届かなかった。