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海月の記憶 2

海月の夢を見た。
水槽の中でたゆたっている。
その海月は自分だった。
水槽の向こうに誰かが立ってこちらを見ている。
あの人かな?と思うけれど、同時にあの人って誰?と思う。
思っていたはずなのに、もう周りの水しか感じなくて、海月はゆっくりと流されていった。

久しぶりにダイニングバー「slight」に来た。
カウンターでマスターに、ここで会った女の話を訊いた。
「お医者様なんですよ。脳神経科の」
なるほど、ならば記憶云々の話をしてもおかしくないのかもしれない。
「時々来るんですか?」
と訊けば、マスターはつぶらな瞳をキラリと光らせた。
「気になるの?」
「いや、まぁ、気になるというのはこの間の話で」
「彼女は手強いよ。それにキミよりも年上だし」
そういう気はした。
「そこのカウンセリングの先生の先輩という話だから、僕よりも歳上だし」
「マジで?」
「マジで」
マスターは真顔で頷いた。

気になるもうひとりにも再会できずにいた。
水族館関係者だと思うから水族館に行けば会えるのかもしれないが、いったいいつ行けば会えるのだろう。
「またお会いしましたね」
そう声を掛けても相手が覚えていなかったら寂しいけれど。

「マスターは裏の水族館に行きますか?」
マスターは食後のコーヒーを淹れながら「たまにね。同じビルにあるから、お付き合いという感じかな?」と答えた。
「癒しを求めて?」
「そういうのはないね。金魚とか熱帯魚はキレイだと思うけど。家に帰ると癒してくれる姫たちがいるし」
「姫?」
マスターは猫を飼っているとのことだった。
「海月の飼育は案外難しいそうですよ」
マスターが言う。
「水の濾過ひとつとっても、海月を吸い込まないようにしなければならないから、普通の水槽で飼えないとか」
なるほど。確かに水の流れに乗っているだけの海月だ。
他にも海月の幼生がガラスにくっついたのもそのままにもできないとか、空気の泡の大きさだとか、海月は呑気に漂っているだけだがその環境を作るのは本当に手間がかかることだった。
「お付き合い程度でしか行っていない割には詳しいんですね」
と少し意地悪く言ってみる。
「水族館のスタッフから聞いたんだ」
店に来るのだろうか?だとしたら自分も会って話を聞いてみたい。
ふいにスマホが着信を伝える。この音はメールだった。

『明日は、設備メンテナンスのため、休館致します』

水族館からだった。
おそらく明日は水族館が開いていても行けなかっただろう。
そうは思っても残念な気持ちになった。

クラゲの図鑑を買った。
図鑑といってもあまり大きくない。ガイドブックと言った方がいいかもしれない。
クラゲの体には口と胃と生殖巣、筋肉や神経もあるが90%以上は水であるという。

海月の記憶も気持ちもどこにも留まりそうもない。
それは羨ましいことなのか寂しいことなのか?そういうことを勝手に思う人間を海月が笑っているように思うのもまた、人間だけなんだよな…と、水の流れに流され続ける海月のように際限なく思って、ため息をつく。